坊っちゃん・九~十・最終章

 坊っちゃん・夏目漱石:九~十・最終章

現代語訳:Relax Stories TV




うらなり君の送別会がある日の朝、学校に行ったら、山嵐が突然、「君、先日はいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出て行ってくれと頼んだから、真面目に受けて、君に出て行ってくれと話したんだ。


でも、後から聞いてみると、あいつは悪い奴で、よく偽筆で贋作の落款などを押して売りつけるそうだから、君のことも全く出鱈目に違いない。君に掛け物や骨董を売りつけて、商売にしようと思ってたところが、君が取り合わないで利益がないものだから、あんな作り話を作って騙したんだ。僕はあの人物を知らなかったので君に大変失礼した、許してくれ」と長々と謝罪した。


僕は何も言わずに、山嵐の机の上にあった一銭五厘を取って、僕の財布の中に入れた。山嵐は「君、それを取るのか」と不審そうに聞くから、「うん、僕は君に奢られるのが嫌だったから、絶対に返すつもりだった。でも、その後じっくり考えてみると、やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、取るんだ」と説明した。


山嵐は大きな声で「アハハハ」と笑いながら、「そうなら、なぜ早く取らなかったのだ」と聞いた。実は取ろう取ろうと思ってたが、何だか変だからそのままにしておいた。最近は学校に来て一銭五厘を見るのが苦痛で嫌だったと言ったら、「君は本当に負け惜しみが強い男だ」と言うから、「君は本当に頑固だ」と答えてやった。


それから二人の間にこんな問答が起こった。「君は一体どこの出身だ」「僕は東京っ子だ」「うん、東京っ子か、だから負け惜しみが強いと思った」「君はどこ出身だ」「僕は会津だ」「会津っぽいね、頑固な訳だ。今日の送別会に行くの?」「もちろん行くよ、君は?」「僕はもちろん行くよ。古賀さんが立つ時は、浜辺で見送りに行こうと思ってるくらいだ」「送別会は面白いよ、出てみて。今日は思いっきり飲むつもりだ」「好きに飲むがいい。僕は料理を食べたら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴はバカだ」「君はすぐ喧嘩を吹っ掛ける男だ。なるほど東京っ子の軽快な風を、よく表してる」「何でもいい、送別会に行く前にちょっと僕の家に寄って、話があるから」


山嵐は約束通りに俺の部屋に来た。この間から、うらなり君の顔を見るたびに気の毒でたまらなかった。でも、今日が送別の日となったら、何だか切なくなって、できることなら、俺が代わりに行ってあげたいような気がした。


だから送別会で、思いっきりスピーチでもして、その旅立ちを盛り上げてやりたいと思ったんだ。でも、俺の口調じゃ、とてもうまくいかないから、大声で話す山嵐を雇って、一番赤シャツのプライドを傷つけてやろうと思ったんだ。だから、わざわざ山嵐を呼んだ。


最初に、マドンナ事件から話し始めたんだ。でも、山嵐はもちろん、マドンナ事件については俺より詳しく知っている。俺が野芹川の土手の話をして、あれはバカだと言ったら、山嵐は「お前は誰を捕まえてもバカ呼ばわりする。今日学校で自分のことをバカと言ったじゃないか。自分がバカなら、赤シャツはバカじゃない。自分は赤シャツの同類じゃない」と主張した。


それじゃ赤シャツはダメダメのアホだと言ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。山嵐は強いことは強いが、こんな言葉になると、俺より遥かに字を知っていない。会津っぽいものはみんな、こんなものなんだろう。


それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが言った話をしたら、山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を免職する考えだなと言った。免職するつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、誰がなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツも一緒に免職させてやると大いに威張った。


どうして一緒に免職させる気かと押し返して尋ねたら、そこはまだ考えていないと答えた。山嵐は強そうだが、知恵はあまりなさそうだ。俺が増給を断ったと話したら、大将は大いに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいと褒めてくれた。


うらなりが、そんなに嫌がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、すでに決まってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうすることもできなかったと話した。それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。


赤シャツから話があった時、断然断るか、一応考えてみますと逃げればいいのに、あの弁舌に騙されて、即座に許諾したものだから、後からお母さんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。


今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうと俺が言ったら、もちろんそうに違いない。あいつは大人しい顔をして、悪事を働いて、人が何か言うと、ちゃんと逃げ道を作って待ってるんだから、よっぽど悪党だ。


あんな奴にかかっては鉄拳制裁でなくっちゃ利かないと、こぶだらけの腕をまくってみせた。俺はついでだから、君の腕は強そうだな、柔術でもやるかと聞いてみた。すると大将の腕に力こぶを入れて、ちょっとつかんでみろと言うから、指の先で揉んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石のようなものだ。



 俺はかなり感心したから、「君のその腕力なら、赤シャツの5人や6人は一度に吹き飛ばされるだろう」と聞いたら、「もちろんさ」と言いながら、曲げた腕を伸ばしたり、縮めたりすると、力こぶがぐるぐると皮の中で回転する。すごく楽しそうだ。


 山嵐の説明によると、金網を二本より合わせて、この力こぶの出る所に巻きつけて、思いっきり腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。「金網なら、俺にもできそうだ」と言ったら、「できるものか、できるならやってみろ」と来た。切れないと評判が悪いから、俺は見送った。


 「どうだ、今夜の送別会でたっぷり飲んだ後、赤シャツと野中を殴ってみないか」と半分冗談で勧めてみたら、山嵐は「そうだな」と考えていたが、「今夜はまあやめておこう」と言った。「なぜ?」と聞くと、「今夜は古賀に気の毒だから――それにどうせぶん殴るくらいなら、あいつらの悪い所を見届けて現場でぶん殴らないと、こっちが悪いことになるから」と、分別のありそうな事を附加した。山嵐でも俺よりは考えがあると見える。


 「じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、俺がすると江戸っ子のぺらぺらになって重みがなくていけない。そうして、きまった所へ出ると、急に溜飲が起って咽喉のどの所へ、大きな丸が上がって来て言葉が出ないから、君に譲るから」と言ったら、「妙な病気だな、じゃ君は人前じゃ口は利けないんだね、困るだろう」と聞くから、「何そんなに困りゃしない」と答えておいた。


 そうこうするうち時間が来たから、山嵐と一緒に会場へ行く。会場は花晨亭といって、ここで一等の料理屋だそうだが、俺は一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷を買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど見かけからして厳かな構えだ。家老の屋敷が料理屋になるのは、まるで陣羽織を胴着に縫い直すようなものだ。


 二人が着いた頃には、人数ももう大概揃って、五十畳の広間に二つ三つ人間の塊が出来ている。五十畳だけに床は素敵に大きい。俺が山城屋で占領した十五畳敷の床とは比較にならない。尺を取ってみたら二間あった。


 右の方に、赤い模様のある瀬戸物の瓶を据えて、その中に松の大きな枝が挿してある。松の枝を挿して何にする気か知らないが、何ヶ月立っても散る気がないから、銭がかからなくて、よかろう。あの瀬戸物はどこで出来るんだと博物の教師に聞いたら、「あれは瀬戸物じゃありません、伊万里です」と言った。「伊万里だって瀬戸物じゃないか」と言ったら、博物はえへへへへと笑っていた。後で聞いてみたら、瀬戸で出来る焼物だから、瀬戸というのだそうだ。


 俺は江戸っ子だから、陶器を瀬戸物と呼ぶと思っていた。床の真ん中に大きな掛け物があって、俺の顔くらいな大きさな字が二十八字書いてある。どうも下手なものだ。あんまり不味いから、漢学の先生に、「なぜあんなまずいものを麗々と掛けておくんです」と尋ねたところ、先生は「あれは海屋といって有名な書家の書いたものだ」と教えてくれた。「海屋だか何だか、俺は今だに下手だと思っている」。


 やがて書記の川村が「どうかお着席を」と言うから、柱があってもたれかかるのに都合のいい所へ座った。海屋の掛け物の前に狸が羽織と袴で着席すると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取った。右の方は主人公だというのでうらなり先生、これも和服で控えている。


 俺は洋服だから、かしこまるのが窮屈だったから、すぐに胡座をかいた。隣の体操教師は黒ズボンで、ちゃんとかしこまっている。体操の教師だけにいやに修行が積んでいる。やがてお膳が出る。徳利が並ぶ。幹事が立って、一言開会の辞を述べる。それから狸が立つ。赤シャツが立つ。ことごとく送別の辞を述べたが、三人ともうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴して、今回去られるのはまことに残念である、学校としてだけでなく、個人として大いに惜しむところであるが、ご本人の都合で、切に転任をご希望になったのだから仕方がないという意味を述べた。


 こんな嘘をついて送別会を開いて、それでちっとも恥ずかしいとも思っていない。ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで言った。しかもその言い方がいかにも、もっともらしくって、例の優しい声を一層優しくして、述べ立てるのだから、初めて聞いたものは、誰でもきっと騙されるに違いない。マドンナも大方この手で引っ掛けたんだろう。


 赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、向かい側に座っていた山嵐が俺の顔を見てちょっと稲光をさした。俺は返電として、人差し指でベッカンコウをして見せた。



赤シャツが座に戻るのを待ちかねて、山嵐がすっと立ち上がった。俺は嬉しくなり、思わず手をパチパチと叩いた。すると、狸を始め一同がことごとく俺の方を見たので、少々困った。


山嵐は何を言うかと思うと、「ただ今、校長始め教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で、古賀君が一日も早く当地を去られることを希望しております。延岡は僻遠の地で、当地に比べると物質的な不便があるだろう。しかし、聞くところによれば、風俗がすこぶる淳朴な所で、職員生徒はことごとく上代樸直の気風を帯びているそうである。心にもないお世辞を振りまいたり、美しい顔をして君子を陥れたりするハイカラ野郎は、一人もいないと信じているから、君のような温良篤厚の士は、必ずその地方一般の歓迎を受けるに違いない。私は大いに古賀君のためにこの転任を祝するのである。


終わりに臨んで、君が延岡に赴任されたら、その地の淑女にして、君子の好逑となるべき資格のある者を選んで、一日も早く円満なる家庭を築き、その不貞無節なるお転婆を事実の上で恥死させることを希望します。」と、二つばかり大きな咳払いをして席に着いた。


俺はまた手を叩こうと思ったが、みんなが俺の顔を見るといやだから、やめにしておいた。山嵐が座ると、今度はうらなり先生が立ち上がった。先生はご丁寧に、自席から座敷の端の末座まで行き、丁寧に一同に挨拶をした上で、「今般は一身上の都合で九州へ参ることになりました。諸先生方が私のためにこの盛大なる送別会を開いて下さったのは、まことに感銘の至りに堪えぬ次第で、ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辞を頂戴し、大いに感謝しております。


私はこれから遠方へ参りますが、何とぞ従前の通り見捨てないでご愛顧を願います。」と、堅苦しく言って席に戻った。うらなり君は、どこまで人がいいのか、ほとんど底が知れない。自分がこんなに馬鹿にされている校長や教頭に丁寧にお礼を言っている。それも義理一遍の挨拶ならまだしも、あの様子や言葉づかい、顔つきから言うと、心から感謝しているらしい。


こんな聖人に真面目にお礼を言われたら、気の毒になって赤面しそうなものだが、狸も赤シャツも真面目に聞いているばかりだ。挨拶が済むと、あちらでもチュー、こちらでもチューという音がする。俺も真似をして汁を飲んでみたが、まずいもんだ。口取りに蒲鉾はついているが、どす黒くて竹輪の出来損ないである。刺身も並んでいるが、厚くて鮪の切り身を生で食うのと同じことだ。それでも隣り近所の連中は、むしゃむしゃ美味そうに食べている。大方、江戸前の料理を食ったことがないんだろう。


そのうちに燗酒が頻繁に行き来し始め、四方が急に賑やかになった。野田公は丁寧に校長の前へ出て盃を頂いている。いやな奴だ。うらなり君は順々に献酬をして、一巡するつもりとみえる。大変な苦労だろう。


うらなり君が俺の前へ来て、「一つ頂戴しましょう」と袴のひだを正して申し込まれたので、俺も窮屈にズボンのままかしこまって、一杯差し上げた。「せっかく参って、すぐお別れになるのは残念ですね。出立はいつですか、是非浜までお見送りをしましょう」と言ったら、うらなり君は「いえ、ご多忙のところ、それには及びません」と答えた。うらなり君が何と言ったって、俺は学校を休んで送る気でいる。


それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れてきた。「まあ一杯、おや僕が飲めと言うのに……」などと舌が回らないのも、一人二人出来てきた。少々退屈したからトイレへ行って、昔風な庭を星明かりに照らして眺めていると、山嵐が来た。「どうだ、さっきの演説はうまかったろう」と大分得意だ。「大賛成だが、一ヶ所気に入らない」と抗議を申し込んだら、「どこが不賛成だ」と聞いた。「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に居ないから……と君は言ったろう」「うん」「ハイカラ野郎だけでは不足だよ。」



「じゃ何と言うんだ」


「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも言うがいい」


「俺には、そう舌は回らない。君は能弁だ。第一、単語を大変たくさん知ってる。それで演舌が出来ないのは不思議だ」


「なに、これは喧嘩のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。演舌となっちゃ、こうは出ない」


「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ」


「何遍でもやるさ。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」と言いかけていると、廊下をドタバタ言わして、二人ばかり、よろよろしながら走って来た。


「両君、それはひどい。――逃げるなんて、僕がいる限り、決して逃がさない。さあ、飲んでみろ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ、飲んでみろ」と俺と山嵐をぐいぐい引っ張って行く。実はこの二人共トイレに来たのだが、酔ってるもんだから、トイレへ入るのを忘れて、俺たちを引っ張るのだろう。酔っ払いは目の前のことに集中し、過去のことをすぐに忘れてしまうものだ。


「さあ、みんな、いかさま師を引っ張って来た。さあ、飲ませてくれ。いかさま師をたくさん、酔わせてくれ。君、逃げちゃいけない」と逃げもせぬ、俺を壁際へ押し付けた。周りを見回してみると、膳の上には、満足できる肴が一つもない。自分の分をきれいに食い尽くして、五六間先へ遠征に出た奴もいる。校長はいつ帰ったか姿が見えない。


ところへ「お座敷はこちら?」と三、四人の芸者が入って来た。俺も少し驚いたが、壁際へ押し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。すると今まで床柱へもたれて例の琥珀のパイプを自慢そうにくわえていた、赤シャツが急に起って、座敷を出にかかった。向こうから入って来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をした。その一人は一番若くて一番きれいな奴だ。遠くで聞きこえなかったが、「おや、今晩は」ぐらい言ったらしい。赤シャツは知らん顔をして出て行ったきり、顔を出さなかった。大方校長の後を追って帰ったんだろう。



  芸者が来たら、部屋中が一気に陽気になって、みんなが歓声を上げて歓迎したかのように、とても騒がしい。そして、ある奴は何をつかむ。その声の大きさは、まるで居合抜きの稽古のように響いていた。こっちでは拳を打ってる。よっ、はっ、と夢中で両手を振るところは、ダーク一座の操り人形よりずっと上手だ。向こうの隅ではおい、お酌だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。どうもうるさく、騒々しくてたまらない。その中で暇を持て余して下を向いて考え込んでるのは俺だけだ。自分のために送別会を開いてくれたのは、転任を惜しんでくれるのではなく、ただ酒を飲んで遊びたいからだ。自分一人が暇を持て余して苦しむためだ。こんな送別会なら、開いてもらわない方がずっとましだ。


 しばらくしたら、みんなが声を出して何か歌い始めた。俺の前に来た一人の芸者が、あんた、何か、歌ってみて、と三味線を抱えたから、俺は歌わない、お前が歌ってみろと言ったら、金や太鼓でない、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。叩いて回って会えるものなら、私なんかも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて回って会いたい人がいる、と息をついて歌って、大変だと言った。大変なら、もっと楽なものをやればいいのに。


 すると、いつの間にか隣に来て座った野田が、鈴ちゃん会いたい人に会ったと思ったら、すぐ帰るで、気の毒だねと相変わらず話し家みたいな言葉使いをする。知らないと芸者はきっぱりと言った。野田は全然気にせず、たまたま会いは会いながら……と、嫌な声を出して義太夫の真似をやる。おきなはれやと芸者は平手で野田の膝を叩いたら野田は恐喜して笑ってる。この芸者は赤シャツに挨拶をした奴だ。芸者に叩かれて笑うなんて、野田もおめでたい奴だ。鈴ちゃん俺が紀伊の国を踊るから、一つ弾いてくれと言い出した。野田はこれからもまだ踊る気でいる。


 向こうで漢学のおじいさんが歯のない口を歪めて、「そりゃ聞けませんよ伝兵衛さん、あなたと私のその中は……」とまでは無事に言い終えたが、それから? と芸者に聞いている。おじいさんは、記憶力が悪いなあと思った。一人が博物を捕まえて最近こんなのが、出来ましたよ、弾いてみましょうか。よく聞いて、いなはれや――花月巻、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と歌うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。


 山嵐はばかに大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、俺が剣舞をやるから、三味線を弾けと命じたのだった。芸者はあまり乱暴な声なので、驚いて返事もしない。山嵐は細かいことは気にせず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳の煙と真ん中へ出て一人で隠し芸を演じている。そのうち、野田は紀伊の国を終え、かっぽれも終え、棚の達磨さんも終えて、全裸の越中ふんどし一つになり、棕櫚箒を小脇に抱えて、日清談判破裂して……と部屋中を歩き回り始めた。まるで気違いだ。


 俺はさっきから苦しそうに袴も脱がずに我慢しているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中ふんどしの裸踊りまで羽織袴で我慢してみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。すると、うらなり君は今日は私の送別会だから、私が先に帰っては失礼です、どうぞ遠慮なくと動く気配もない。何気にするんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あの様子をご覧なさい。気違いの会です。さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、部屋を出かけるところへ、野田が箒を振り振り進行して来て、やあ主人が先に帰るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手を塞いだ。俺はさっきから腹立たしくて、日清談判ならお前はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳で、野田の頭をぽかりと叩いてやった。


 野田は二三秒の間毒気を抜かれた体で、ぼんやりしていたが、おや、これはひどい。お撲りになったのは情けない。この吉川を打撃とは恐れ入った。いよいよもって日清談判だ。とわからないことを並べているところへ、後ろから山嵐が何か騒動が始まったと見てとって、剣舞をやめて飛んできたが、この様子を見て、いきなり首筋をぐっとつかんで引き戻した。日清……痛い、痛い。どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横にねじったら、すとんと倒れた。あとはどうなったか知らない。途中でうらなり君に別れて、家へ帰ったら十一時過ぎだった。




祝勝会で学校はお休みだ。練習場で式があるというので、狸は生徒を引率して参列しなければならない。俺も職員の一人として一緒に行くんだ。街へ出ると日の丸だらけで、眩しいくらいだ。


学校の生徒は800人もいるのだから、体操の教師が隊列を整えて、一組一組の間を少しずつ開けて、それへ職員が一人か二人ずつ監督として割り込む仕掛けだ。仕掛けは巧妙だが、実際の運営は不手際だ。


生徒は子供の上に生意気で、規律を破ることが体面にかかわると思っている奴らだから、職員が何人ついて行ったって何の役にも立たない。命令もなく、勝手に軍歌を歌ったり、軍歌をやめるとワーと理由もなく声を上げたり、まるで浪人が街内を歩き回っているようなものだ。軍歌も声も上げない時はがやがや何かしゃべっている。


しゃべらないでも歩けそうなものだが、日本人はみんな口から先に生まれるのだから、いくら注意しても聞きっこない。しゃべるのも、ただしゃべるのではなく、教師の悪口を言うのだから、不適切だ。


俺は宿直事件で生徒を謝罪させて、まあこれならいいだろうと思っていた。ところが実際は大違いだ。下宿のおばあさんの言葉を借りて言えば、まさに大違いの勘五郎だ。生徒が謝ったのは、心から後悔したわけではなかった。ただ校長から命令されて、形式的に頭を下げたのだ。


商人が頭ばかり下げて、ずるいことをやめないのと同じで生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものではない。よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなものから成り立っているかもしれない。


人が謝ったり謝罪したりするのを、真面目に受けて許すのは正直過ぎるバカと言うんだろう。謝るのも一時的に謝るので、許すのも一時的に許すのだと思ってれば差し支えない。もし本当に謝らせる気なら、本当に後悔するまで叩きつけなくてはいけない。


俺が組と組の間に入って行くと、天ぷらだの、団子だのという声が絶え間なく響いている。


しかも大勢だから、誰が言っているのか分からない。よし、分かっても俺のことを天ぷらと言ったんじゃない、団子と言ったのじゃない。それは先生が神経衰弱だから、偏見で、そう聞くんだくらい言うに決まってる。


こんな卑劣な性格は、封建時代からこの土地の習慣として根付いているのだから、いくら言い聞かせても、教えたところで、到底直りはしない。こんな土地に一年もいると、清廉な俺も、この真似をしなければならなくなるかもしれない。


向こうでうまく言い逃れられるような手段で、俺の顔を汚すのを放っておく樗蒲はない。向こうが人なら俺も人だ。生徒だって、子供だって、体格は俺より大きいや。だから刑罰として何か報復をしてやらなくては義理が悪い。


ところがこっちから報復をする時に普通の手段で行くと、向こうから逆襲を受ける。お前が悪いからだと言うと、初手から逃げ道が作ってある事だから滔々と弁じ立てる。弁じ立てておいて、自分の方を表向きだけ立派にして、それからこっちの非を攻撃する。


もともと報復にした事だから、こちらの弁護は向こうの非が挙がらない上は弁護にならない。つまりは向こうから手を出しておいて、世間体がこっちが仕掛けた喧嘩のように見なされてしまう。大変な不利益だ。


それなら向こうのやるなり、愚かな子供を極め込んでいれば、向こうはますます増長するばかり、大きく言えば世の中のためにならない。そこで仕方がないから、こっちも向こうの筆法を用いて捕まえられないで、手の付けようのない報復をしなくてはならなくなる。


そうなっては江戸っ子もダメだ。ダメだが一年もこうやられる以上は、俺も人間だからダメでも何でもそうならなくっちゃ始末がつかない。


どうしても早く東京へ帰り、清らかと共に過ごすことが一番だ。こんな田舎にいるのは堕落しているようなものだ。新聞配達をしたって、ここまで堕落するよりはましだ。


こう考えて、いやいや、付いて行くと、何だか先鋒が急にがやがや騒ぎ出した。同時に列はぴたりと止まる。変だから、列を右へ外して、向こうを見ると、大手街を突き当って薬師街へ曲がる角の所で、行き詰まったり、押し返したり、押し返されたりしてもみ合っている。


前方から静かに静かにと声を枯らして来た体操教師に何ですと聞くと、曲がり角で中学校と師範学校が衝突したんだと言う。中学と師範とはどこの県下でも犬と猿のように仲が悪いそうだ。なぜだかわからないが、まるで気風が合わない。何かあると喧嘩をする。


大方狭い田舎で退屈だから、暇つぶしにやる仕事なんだろう。俺は喧嘩は好きな方だから、衝突と聞いて、面白半分に駆け出して行った。すると前の方にいる連中は、しきりに何だ地方税のくせに引き込めと怒鳴っている。


後ろからは押せ押せと大きな声を出す。俺は邪魔になる生徒の間をくぐり抜けて、曲がり角へもう少しで出ようとした時に、前へ! と言う高く鋭い号令が聞こえたと思ったら、師範学校の方は粛々として行進を始めた。


先を争った衝突は、折り合いがついたには違いないが、つまり中学校が一歩を譲ったのである。資格から言うと師範学校の方が上だそうだ。



祝勝の式はとても簡単なものだった。


旅団長が祝詞を読み、知事が祝詞を読み、参列者が万歳を唱える。それで終わりだ。


余興は午後にあるという話だから、一旦下宿へ帰って、ここ数日から気になっていた清への返事を書き始めた。


今度はもっと詳しく書いてくれとの注文だから、なるべく丁寧に書かなくてはならない。


しかしいざとなって、半切を取り上げると、書くことはたくさんあるが、何から書き出していいか、わからない。


あれにしようか、あれは面倒くさい。これにしようか、これはつまらない。


何かすらすらと出て、骨が折れなくて、そして清が面白がるようなものはないかしらん、と考えてみると、そんな注文通りの事件は一つもなさそうだ。


俺は墨を磨き、筆を湿らせ、巻紙を見つめる。


何度も同じ動作を繰り返した後、手紙を書くことは無理だと諦めて硯の蓋を閉じてしまった。


手紙を書くのは面倒だ。


やはり東京まで出かけて、直接会って話をするのが一番簡単だ。


清の心配は察しないでもないが、清の注文通りの手紙を書くのは三七日の断食よりも苦しい。


俺は筆と巻紙を放り出して、ごろりと転がって肘枕をして庭の方を眺めてみたが、やっぱり清の事が気になる。


その時、俺はこう思った。


こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、俺の真心は清に通じるに違いない。


通じさえすれば手紙なんてやる必要はない。


やらなければ無事で暮らしてると思ってるだろう。


便りは死んだ時か病気の時か、何か事の起った時にやりさえすればいい訳だ。


庭は十坪ほどの平庭で、これという植木もない。


ただ一本のみかんがあって、塀の外から目印になるほど高い。


俺は家へ帰ると、いつでもこのみかんを眺める。


東京を出た事のないものには、みかんの生っているところはとても珍しいものだ。


あの青い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、きっと綺麗だろう。


今でももう半分色の変ったのがある。


おばあさんに聞いてみると、とても水分の多い、美味しいみかんだそうだ。


熟れたらぜひたくさん食べてみてと言ったから、毎日少しずつ楽しむつもりだ。


もう三週間もしたら、十分に食べられるだろう。


まさか三週間以内にここを去る事もないだろう。


俺がみかんの事を考えているところへ、偶然山嵐が話しにやって来た。


今日は祝勝会だから、君と一緒にご馳走を食べようと思って牛肉を買って来たと、竹の皮の包みを袖から引きずり出して、座敷の真ん中へ投げ出した。


俺は下宿で芋責め豆腐責になってる上、そば屋行き、団子屋行きを禁じられてる際だから、そいつは結構だと、すぐおばさんから鍋と砂糖を借りて、煮方に取りかかった。


山嵐は無理矢理に牛肉を頬張りながら、「君、あの赤シャツが芸者になじみのあることを知ってるか」と聞くから、「知ってるよ、この間うらなりの送別会の時に来た一人がそうだろう」と答えたら、「そうだね、僕はこの頃ようやく気づいたのに、君はなかなか敏捷だね」と大いに褒めた。


「あいつは二言目には品性だの、精神的娯楽だのと言うくせに、裏で芸者と関係なんか持ってる、怪しい奴だ。それも他の人が遊ぶのを寛容にするならいいが、君がそば屋へ行ったり、団子屋へ入るのさえ取締上害になると言って、校長の口を通して注意を加えたじゃないか」


「うん、あの野郎の考えじゃ芸者買いは精神的娯楽で、天ぷらや団子は物理的娯楽なんだろう。精神的娯楽なら、もっと大げさにやるがいい。一体、あの様子は何だろう。馴染の芸者が入ってくると、交代に席を外して、逃げるなんて、どこまでも人を騙す気だから気に食わない。そして人が攻撃すると、僕は知らないとか、ロシア文学だとか、俳句が新体詩の兄弟分だとか言って、人を煙に巻くつもりなんだ。あんな弱虫は男じゃないよ。全く御殿女中の生まれ変わりか何かだね。ことによると、あいつのおやじは湯島の影かもしれない」


「湯島の影って何だ」


「何でも男らしくないものだろう。――君、そこのところはまだ煮えていないよ。そんなのを食べると蛇虫が湧くよ」


「そうか、大体大丈夫だろう。それで赤シャツは人に隠れて、温泉の街の角屋へ行って、芸者と会見するそうだ」


「角屋って、あの宿屋か」


「宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが芸者を連れて、あそこへ入るところを見届けておいて、しっかりと問い詰めるんだね」


「見届けるって、夜番でもするのかい」


「うん、角屋の前に枡屋という宿屋があるだろう。あの表二階を借りて、障子に穴をあけて、見ているのさ」


「見ているときに来るかい」


「来るだろう。どうせ一晩じゃいけない。二週間くらいやるつもりでなくっちゃ」


「随分疲れるね。実は、僕もおやじが死ぬとき、一週間くらい徹夜して看病したことがある。その後、ぼんやりして、大いに弱ったことがある」


「少しぐらい体が疲れたって構わないさ。あんな奸物をそのままにしておくと、日本のためにならないから、僕が天に代わって誅戮を加えるんだ」


「面白いね。そう事が極まれば、俺も加勢してやる。それで今夜から夜番をやるのかい」


「まだ枡屋に連絡してないから、今夜はダメだ」


「それじゃ、いつから始めるつもりだい」


「近々やるよ。いずれ君に報告するから、その時は手伝ってくれ。」


「了解、いつでも手伝うよ。僕は策略は下手だけど、喧嘩となるとこれでもなかなかすばしっこいぜ。」


俺と山嵐がしきりに赤シャツ退治の策略を相談していると、宿のおばあさんが出て来て、「学校の生徒さんが一人、堀田先生にお目にかかりたいとお出でたよ。今、お宅へ行ったんだけど、お留守だったから、きっとここだろうと探し当ててお出でたのよ」と、玄関の所で膝をついて山嵐の返事を待っている。山嵐は「そうですか」と玄関まで出て行ったが、すぐに帰って来て、「君、生徒が祝勝会の余興を見に行かないかって誘いに来たんだ。今日は高知から、何とか踊りをしに、わざわざここまで大勢で乗り込んで来ているから、是非見物しろ、めったに見られない踊りだって言ってるんだ。君も一緒に行ってみたらどうだ」と山嵐は大いに乗り気で、俺に同行を勧める。俺は踊りを東京でたくさん見てきたから、土佐風の馬鹿踊りは見たくないと思っていたけれど、せっかく山嵐が勧めるから、つい行く気になって門へ出た。山嵐を誘いに来たのは赤シャツの弟だった。変な奴が来たなと思った。


会場に入ると、回向院の相撲か本門寺の御会式のように何本もの長い旗を所々に植え付けた上に、世界各国の国旗を全部借りて来たくらい、縄から縄、綱から綱へ渡し掛けて、大きな空がいつもより賑やかに見える。東の隅に一晩で作った舞台を設けて、ここでいわゆる高知の何とか踊りをやるんだそうだ。舞台を右へ半町ほど進むと、葦簀で囲まれた生け花が展示されている。みんなが感心して眺めているが、全くつまらないものだ。あんなに草や竹を曲げて喜んでいるなら、背虫の色男や跛の主人を自慢するのも良いだろう。


舞台とは反対の方で、ひっきりなしに花火が上がっている。花火の中から風船が出てきた。帝国万歳と書かれている。天主の松の上をふわふわ飛んで会場の中へ落ちていった。次にはぽんと音がして、黒い団子がぐっと秋の空を射抜くように上がると、それが俺の頭の上でぽかりと割れて、青い煙が傘の骨のように広がって、だらだらと空中に流れ込んだ。風船がまた上がった。今度は陸海軍万歳と赤地に白く染め抜かれた奴が風に揺られて、温泉の街から相生村の方へ飛んでいった。おそらく観音様の境内へでも落ちたんだろう。


式の時はそれほどでもなかったが、今度は大変な人出だ。田舎にもこんなに人間が住んでいるなんて驚いたよ。賢そうな顔はあまり見当たらないが、数だけで言えば決して馬鹿にはできない。そのうちに評判の高知の何とか踊りが始まった。踊りというから藤間か何かのやる踊りかと早とちりしていたが、これは大間違いだった。


厳つい後頭巻をして、立ったままの袴を穿いた男が十人ずつ、舞台の上に三列に並んで、その三十人がみんな抜き身を持っているのには驚いた。前列と後列の間はわずか一尺五寸くらいだろう、左右の間隔はそれより短いか長くはない。ただ一人列を離れて舞台の端に立っているのがあるだけだ。この仲間はずれの男は袴だけは穿いているが、後頭巻は節約して、抜き身の代わりに胸に太鼓を懸けている。太鼓は太神楽の太鼓と同じものだ。この男がやがて、いやあ、はああとのんきな声を出して、奇妙な歌を歌いながら、太鼓をぼこぼん、ぼこぼんと叩く。歌の調子は前代未聞の不思議なものだ。三河万歳と普陀洛の合併したものと思えば、大した間違いにはならない。



歌はとても長いもので、夏の水飴のように、だらしがないが、リズムを取るためにぼこぼんと打つから、一定のリズムは取れる。このリズムに合わせて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これはまたとても素早い手際で、見ていてもヒヤヒヤする。


隣も後ろも一尺五寸以内に生きた人間がいて、その人間がまた切れる抜き身を自分と同じように振り回すのだから、よほどリズムが揃わなければ、同士討ちを始めて怪我をすることになる。それも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ危険はないが、三十人が一度に足踏みをして横を向く時がある。ぐるりと回ることがある。膝を曲げることがある。


隣りのものが一秒でも早過ぎるか、遅過ぎれば、自分の鼻は落ちるかもしれない。隣りの頭はそがれるかもしれない。抜き身の動くのは自由自在だが、その動く範囲は一尺五寸角の柱の中に限られていて、前後左右のものと同方向に同速度に動かなければならない。これは驚くべきことで、汐汲みや関の戸とは比べものにならない。


聞いてみると、これははなはだ熟練の入るもので容易なことでは、こういう風にリズムが合わないそうだ。特に難しいのは、あの万歳節のぼこぼん先生だそうだ。三十人の足の運びも、手の動きも、腰の曲げ方も、すべてこのぼこぼん君のリズム一つで決まるのだそうだ。


傍で見ていると、この大将は一見のん気そうに、いやあ、はああと気楽に歌っているが、その実は責任が重く、非常に骨が折れるのだ。


俺と山嵐が感心のあまりこの踊りを余念なく見物していると、半街ばかり、向うの方で急にわっという声がして、今まで穏やかに諸所を見ていた連中が、にわかに波を打って、右左に揺れ始める。喧嘩だ喧嘩だという声がすると思うと、人の袖をくぐり抜けて来た赤シャツの弟が、「先生また喧嘩です、中学の方で、今朝の意趣返しをするんで、また師範の奴と決戦を始めたところです、早く来て下さい」と言いながらまた人の波の中へ潜り込んでどこかへ行ってしまった。



山嵐は面倒くさい奴だ。また始めたのか。適度にすればいいのにと逃げる人を避けながら一気に走り出した。見ているだけではダメだから止めるつもりだろう。俺はもちろん逃げる気はない。山嵐の後を追ってすぐに現場へ駆けつけた。喧嘩は今まさに真っ最中だ。師範の方は五六十人もいるだろうか。中学は確かに三割方多い。師範は制服を着ているが、中学は式後ほとんどが日本服に着替えているから、敵と味方の見分けがつく。


しかし入り乱れて組み合って、解きほぐれながら戦っているから、どこからどう手を付けて引き分けていいか分からない。山嵐は困ったなという表情で、しばらくこの乱雑な様子を見守っていたが、こうなってしまった以上、仕方がない。警察が来ると、さらに厄介なことになる。飛び込んで分けようと、俺の方を見て言う山嵐に、俺は返事もせず、いきなり、一番喧嘩の激しいところへ飛び込んだ。


止めろ、止めろ。そんな乱暴をすると学校の体面に関わる。やめないかと、出るだけの声を出して敵と味方の分界線らしい所を突き抜けようとしたが、なかなかそううまくはいかない。一二間進んだら、出る事も引く事も出来なくなった。目の前に比較的大きな師範生が、十五六の中学生と組み合っている。


止めろと言うと、師範生の肩を掴んで無理に引き分けようとする途端に、誰か知らないが、下から俺の足をすくった。俺は不意を打たれて握った肩を放して、横に倒れた。硬い靴で俺の背中に乗った奴がいる。両手と膝を突いて下から跳ね起きたら、乗った奴は右の方へ転がり落ちた。起き上がって見ると、三間ばかり向こうに山嵐の大きな身体が生徒の間に挟まりながら、止めろ、止めろ、喧嘩は止めろ、止めろと押し返されているのが見えた。


おい、絶対ダメだと言ってみたが、聞こえないのか返事もしない。ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなり俺の頬骨に当たったなと思ったら、後ろからも、背中を棒でどやした奴がいる。教師なのに出ている、打て打てという声がする。教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石を投げろという声もする。


俺は、何生意気な事を言うな、田舎者のくせにと、いきなり、そばにいた師範生の頭を張りつけてやった。石がまたひゅうと来る。今度は俺の五分刈りの頭をかすめて後ろの方へ飛んで行った。山嵐はどうなったか見えない。こうなっちゃ仕方がない。始めは喧嘩を止めに入ったんだが、どやされたり、石を投げられたりして、恐怖に打ち震えて引き下がる勇気があるものか。


俺を誰だと思うんだ。身長は小さくても喧嘩の本場で修行を積んだ兄貴だと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて警察だ警察だ逃げろ逃げろという声がした。今まで乱闘の中で泳いでいるように身動きも出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引き上げてしまった。田舎者でも退却は巧妙だ。クロパトキンよりうまいくらいだ。


山嵐はどうしたかと見ると、紋付の一重羽織をずたずたにして、向こうの方で鼻を拭いている。鼻柱を殴られて大分出血したんだそうだ。鼻が腫れ上がって真っ赤になって、とても見苦しい。俺は飛白の袷を着ていたから泥だらけになったけど、山嵐の羽織ほどの損害はない。しかし頬がぴりぴりしてたまらない。山嵐は大分血が出ているぜと教えてくれた。


警察は十五六名来たのだが、生徒は反対の方面から退却したので、捕まったのは、俺と山嵐だけだった。俺たちは名前を告げて、一部始終を話したら、ともかくも警察まで来いと言うから、警察へ行って、署長の前で事の顛末を述べて下宿へ帰った。


次の日目が覚めてみると、体中が痛くてたまらない。久しぶりに喧嘩をしたから、こんな状態では、あまり自慢できるものではないとベッドの中で考えていると、おばあさんが四国新聞を持ってきて枕元へ置いてくれた。


実は、新聞を見るのも億劫なのだが、男がこれほどのことで閉口するわけにはいかないと無理にうつ伏せになり、寝ながら二ページを開けてみると驚いた。昨日の喧嘩がちゃんと出ている。喧嘩の出ているのは驚かないのだが、中学の教師堀田某と、最近東京から赴任した生意気な某とが、順良な生徒を扇動してこの騒動を引き起こすだけでなく、両人は現場にあって生徒を指揮し、無理に師範生に対して暴行を働いたと書かれており、次にこんな意見が付記してある。


本県の中学は昔から善良温順な気風をもって全国の羨望するところだったが、軽薄な二人のために我々の学校の特権を毀損されて、この不面目を全市に受けた以上は、我々は奮然として立ち上がってその責任を問わざるを得ない。我々は信じている。我々が手を下す前に、当局者は相当の処分をこの無頼漢の上に加えて、彼らをして再び教育界に足を踏み入れる余地なくすべきだと。


そして一字ごとにみんな黒点を加えて、お灸を据えたつもりでいる。俺はベッドの中で、くそでも食らえと言いながら、むっくり飛び起きた。不思議なことに今まで体の関節が非常に痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽くなった。俺は新聞を丸めて庭へ投げつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ後ろの方へ持って行って捨てて来た。


新聞なんて無暗に嘘を吐くものだ。世の中に何が一番嘘を吹くと言って、新聞ほどの嘘吹きはいないだろう。俺の言ってるべきことをみんな反対で並べていやがる。それに最近東京から赴任した生意気な某とは何だ。世界に某という名前の人がいるか。考えてみろ。これでもちゃんと姓もあり名もあるんだ。系図が見たければ、多田満仲以来の先祖を一人ひとり残らず拝ましてやるよ。


――顔を洗ったら、頬が急に痛くなった。おばさんに鏡を貸してと言ったら、今朝の新聞を見たかと聞く。読んで後ろへ捨てて来た。欲しければ拾って来いと言ったら、驚いて引き下がった。鏡で顔を見ると昨日と同じように傷がついている。これでも大事な顔だ、顔に傷まで付けられた上に生意気な某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。



今日の新聞に呆れて、学校を休んだなんて言われたら、一生の恥だから、ご飯を食べてすぐに学校に行った。出てくるやつも、出てくるやつも、俺の顔を見て、笑っている奴らがいる。何がおかしいんだ。お前たちが作った顔じゃないだろう。


そのうち、野田が出てきて、「昨日は大活躍で、名誉の負傷だったね」と送別会の時に殴った報復だと思ったのか、冷やかしてきたから、余計なことを言わずに絵筆でも舐めてろと言ってやった。すると、こいつは驚いたようだった。でも、さぞかし痛かったんだろうと言うから、痛かろうが、痛くなかろうが俺の顔だ。お前の世話になるもんかと怒鳴りつけてやったら、向こう側の自分の席に着いて、やっぱり俺の顔を見て、隣の歴史の教師と何か内緒話をして笑っている。


その後、山嵐が登校してきた。山嵐の鼻に至っては、紫色に腫れ上がって、掘ったら中から膿が出そうに見える。自惚れのせいか、俺の顔よりずっとひどくやられている。俺と山嵐は机を並べて、隣り合わせの仲で、運が悪いことに、その机が部屋の入口から真正面にあるんだから運が悪い。変な顔が二つ固まっている。


他の奴は退屈になるときっとこっちばかり見る。飛んだことだと口では言っているが、心の中ではこのバカと思っているに違いない。それでなければあんな風にひそひそ話してはくすくす笑うわけがない。教室に出ると生徒は拍手で迎えた。先生万歳と言うものが二、三人あった。元気がいいんだか、バカにされてるんだか分からない。


俺と山嵐がこんなに注目の的になってる中に、赤シャツだけは、いつも通りに側にやってきて、「本当に大変な災難でした。僕は君たちに対して申し訳ない。新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申し込む手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。僕の弟が堀田君を誘いに行ったから、こんな事が起こったので、僕は本当に申し訳ない。それでこの件については最後まで尽力するつもりだから、どうかお許しを」と半分謝罪的な言葉を並べている。校長は三時間目に校長室から出てきて、「困ったことを新聞が書き出しましたね。難しくならなければいいが」と少し心配そうに見えた。


俺には心配なんて無用だ。免職されるなら、辞表を出すだけだ。しかし自分が悪くないのにこっちから身を引くのは新聞屋をますます増長させるわけだから、新聞屋を正誤させて、俺が意地を張ってでも働くのが当然だと考えた。帰りがけに新聞屋に談判に行こうと思ったが、学校から取消の手続きはしたと言うから、やめた。


俺と山嵐は校長と教頭に時間の合間を見計らって、嘘のないところを一応説明した。校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校に恨みを抱いて、あんな記事をわざわざ掲げたんだろうと論断した。赤シャツは俺たちの行動を弁解しながら控え室を一人で歩き回っていた。特に自分の弟が山嵐を誘い出したのを自分の過失であるかのように広めていた。


みんなは全く新聞屋が悪い、ひどい、二人は本当に災難だと言った。



帰りがけに山嵐は、「君、赤シャツは怪しいぞ。気をつけないと、やられるかもしれないぞ」と注意した。


「どうせ怪しいんだ、今日から怪しくなったわけじゃないだろ」と言うと、「君まだ気がつかないのか。昨日わざわざ、僕たちを誘い出して喧嘩の中に巻き込んだのは策だったんだぞ」と教えてくれた。なるほどそこまでは気がつかなかった。山嵐は粗暴なようだが、俺より賢い男だと感心した。


「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐ後から新聞屋に手を回して、あんな記事を書かせたんだ。本当に悪賢い奴だ」


「新聞までも赤シャツか。それは驚いた。でも新聞が赤シャツの言う事をそんなに簡単に聞くかな」


「聞かなくても。新聞屋に友達がいれば問題はないさ」


「友達がいるのか」


「いなくても問題ないさ。嘘をついて、事実はこれこれだと話せば、すぐ書くさ」


「ひどいもんだな。本当に赤シャツの策なら、僕たちはこの事件で免職になるかもしれないね」


「悪い結果になるかもしれない」


「そうなら、俺は明日辞表を出してすぐ東京へ帰る。こんな下等な所に頼んでいるのは嫌だ」


「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」


「それもそうだな。どうしたら困るだろう」


「あんな悪賢い奴のやる事は、何でも証拠が挙がらないように工夫するんだから、反論するのは難しいね」


「厄介だな。それじゃ濡れ衣を着るんだね。面白くもない。天道は公平か不公平かだ」


「まあ、もう二三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉の街で取って抑えるより仕方がないだろう」


「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」


「そうさ。こっちはこっちで向こうの急所を抑えるのさ」


「それもいいだろう。俺は策略が苦手だから、何でもお前に任せるよ。いざとなれば何でもする」


俺と山嵐はこれで別れた。赤シャツが果たして山嵐の推察通りをやったのなら、本当にひどい奴だ。とても知恵比べで勝てる奴ではない。どうしても力でなくっちゃダメだ。


なるほど、世界に戦争が絶えない理由がわかった。個人でも、最終的には力が必要なんだ。


次の日、新聞が来るのを待ちかねて、開いてみると、正誤どころか取り消しも見えない。学校へ行って狸に催促すると、「明日ぐらい出すでしょう」と言う。


明日になって六号活字で小さく取消が出た。しかし新聞屋の方で正誤はもちろんしていない。また校長に談判すると、「あれより手続きのしようはないのだ」という答えだ。校長なんて狸のような顔をして、いやにフロック張っているが意外と無力なものだ。


虚偽の記事を掲げた田舎新聞一つ謝らせる事が出来ない。あまりに腹が立ったから、「それじゃ私が一人で行って主筆に談判する」と言ったら、「それはいけない、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋に書かれた事は、嘘にせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。あきらめるより外に仕方がない」と、坊主の説教みたいな説諭を加えた。


新聞がそんな者なら、一日も早く潰してしまった方が、我々の利益だろう。新聞に書かれるのと、スッポンに食いつかれるのとが似たり寄ったりだとは今日この頃狸の説明によって初めて知った。


それから三日ほどして、ある日の午後、山嵐が怒ってやって来て、「とうとう時が来た、俺はあの計画を実行するつもりだ」と言うから、「そうか、それなら俺もやろう」と、すぐに一味に加わった。


ところが山嵐が、「君はやめておいた方がいい」と、首を傾げた。「なぜ?」と聞くと、「君は校長に呼ばれて辞表を出せと言われたか?」と聞かれ、「いや、言われない。君は?」と聞き返すと、「今日、校長室で、本当に気の毒だけど、事情が仕方ないから辞職してくれと言われた」とのことだ。


「そんな裁判はないだろ。狸はきっと腹を叩きすぎて、胃の位置が逆さまになったんだ。君と俺は、一緒に、祝勝会に出て、一緒に高知の踊りを見て、一緒に喧嘩を止めに入ったんだろ? 辞表を出せというなら公平に両方に出すべきだ。なんで田舎の学校はそんな理屈が分からないんだろう。イライラするな」


「それが赤シャツの策略だよ。俺と赤シャツとは今までの経緯上、絶対に共存できない人間だが、君の方は今のままでも害にならないと思っているんだ」


「俺だって、赤シャツと共存するつもりはない。害にならないと思うなんて生意気だ」


「君はあまり単純すぎるから、そのままにしておいても、どうせ騙されると思っているんだ」


「なお悪い。誰が共存してやるものか」


「それに先だって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために到着しないだろう。その上、君と俺を同時に追い出したら、生徒の時間に隙間ができて、授業に支障が出るからな」


「それじゃ、俺を一時的なくさびに使うつもりなんだな。この野郎、誰がその手に乗るものか」


次の日、俺は学校に行って校長室に入り、談判を始めた。「なぜ私に辞表を出せと言わないんですか」


「え?」と狸は驚いている。「堀田には出せ、私には出さなくていいという法がありますか」


「それは学校の都合で……」


「その都合は明らかに間違っていますよ。私が出さなくてもいいなら、堀田だって出す必要はないでしょう」


「その辺は説明ができかねますが――堀田君はどうしても辞めてもらわないといけないのですが、あなたは辞表を出す必要はないと思っていますから」


なるほど狸だ、要領を得ないことばかり並べて、しかも落ち着いている。俺は仕方がないから「それなら私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私がのんびりと残れると思っているのか」と言った。


「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまったくできなくなってしまうから……」


「できなくなっても私の知ったことじゃありません」


「君、そう我儘を言うものじゃない。少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てから一ヶ月も経たないうちに辞職したと言うと、君の将来の履歴に関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう」


「履歴なんか気にするもんですか、履歴より義理が大切です」


「そりゃごもっとも――君の言うところは一々ごもっともだが、私の言う方も少しは察してください。君がどうしても辞職すると言うなら辞職してもいいから、代わりが見つかるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一度考え直してみてください」


考え直すと言っても、直しようのない明らかな理由だが、狸が青ざめたり赤くなったりして可哀想になったので、一応考え直すことにして引き下がった。赤シャツには口もきかなかった。どうせやるなら、まとめて思いっきりやった方がいい。


山嵐に狸との談判の様子を話したら、大体そんなことだろうと思った。辞表のことはいざとなるまでそのままにしておいても差し支えないとの話だったから、山嵐の言う通りにした。どうも山嵐の方が俺よりも賢いから万事山嵐の忠告に従うことにした。



山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶をし、浜の港屋まで下がったが、人に知れないように引き返して、温泉街の枡屋の二階へ潜んで、障子に穴をあけて覗き出した。


これを知ってる者はおればかりだ。赤シャツが忍んで来ればどうせ夜だ。しかも宵の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに決まってる。最初の二晩はおれも十一時頃まで張番をしたが、赤シャツの影も見えない。


三日目には九時から十時半まで覗いたが、やはり駄目だ。駄目を踏んで夜中に下宿へ帰るほど馬鹿げたことはない。四五日経つと、うちの婆さんが少々心配を始めて、奥さんのあるのに、夜遊びはおやめたほうがいいぞと忠告した。


そんな夜遊びは、こちらは天に代わって誅戮を加える夜遊びだ。とはいえ、一週間も通って、少しも験が見えないと、いやになってしまうものだ。


おれは性急な性分だから、熱心になると徹夜で仕事をするが、その代わり、何においても長持ちした試しがない。いかに天誅党でも飽きることに変わりはない。


六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。そこへ行くと山嵐は頑固なものだ。宵から十二時過ぎまでは眼を障子に付けて、角屋の丸ぼやの瓦斯灯がすとうの下を睨めっきりである。


おれが行くと、今日は何人客があって、泊まりが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚いた。どうも来ないようじゃないかと云うと、うん、たしかに来るはずだが、時々腕を組んで溜息をつく。


可愛そうに、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加えることは出来ないのである。


八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから街で鶏卵を八つ買った。これは下宿の婆さんの芋責めに応ずる策である。


その玉子を四つずつ左右の袂に入れて、例の赤手拭を肩へ乗せて、懐手でをしながら、枡屋の楷子段を登って山嵐の座敷の障子をあけると、「おい、有望だ」と韋駄天のような顔は急に活気を呈した。


昨夜までは少し塞ぎ気味で、はたで見ているおれさえ、陰気臭いと思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞かない先から、愉快愉快と云った。



「今夜7時半頃、あの芸者の小鈴が角屋に入ったよ」


「赤シャツと一緒か?」


「違うよ」


「それじゃダメだね」


「芸者は二人組だけど、――何となく期待できそうだ」


「どうして?」


「どうしてって、あいつはずる賢いから、芸者を先に送り込んで、後からこっそり来るかもしれない」


「そうかもしれないね。もう9時だろう」


「今、ちょうど9時12分だよ」と腰からニッケル製の時計を取り出して見ながら言った。「おい、ランプを消して、障子に二つの頭が映ってるとおかしいよ。キツネはすぐに疑うから」


俺は一貫張りの机の上にあったランプを吹き消した。星明かりで障子だけは少し明るい。月はまだ出ていない。俺と山嵐は一生懸命に障子に顔をつけて、息を止めている。チーンと9時半の柱時計が鳴った。


「おい、来るかな。今夜来なければ、もう嫌だよ」


「俺はお金が尽きるまでやるんだ」


「お金って、いくらあるんだ?」


「今日までで8日分、5円60銭払った。いつ飛び出してもいいように、毎晩清算してるんだ」


「それは手回しがいいね。下宿は驚いてるだろう」


「下宿はいいけど、気が散るから困る」


「その代わり昼寝をするだろう」


「昼寝はするけど、外出できないから窮屈でたまらない」


「天誅も大変だな。これで天網恢々として漏らしちゃったり、何かやっちゃったら、つまらないよ」


「何、今夜はきっと来るよ。――おい、見て見て」と小声になったから、俺は思わずドキッとした。黒い帽子をかぶった男が、角屋のガス灯を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。違う。おやおやと思った。そのうち、帳場の時計が遠慮なく10時を打った。今夜もとうとうダメみたいだ。


世間はだいぶ静かになった。遊郭で鳴らす太鼓が手に取るように聞こえる。月が温泉の山の後ろからゆっくりと顔を出した。通りは明るい。すると、下の方から人の声が聞こえてきた。窓から顔を出すわけにはいかないから、姿を確認することはできないが、だんだん近づいてくる模様だ。カランカランと駒下駄を引きずる音がする。目を斜めにすると、やっと二人の影が見えるくらいに近づいた。


「もう大丈夫だよ。邪魔者は追い払ったから」正しく野田の声だ。「強がるばかりで策がないから、仕方がない」これは赤シャツだ。「あの男もベラボーに似てるね。あのベラボーと来たら、勇み肌の坊ちゃんだから魅力があるよ」


「昇給が嫌だから辞表を出したいって、やっぱり神経に異常があるに違いない」


俺は窓を開け、二階から飛び降りて、思うようにやっつけてやろうと考えた。しかし、何とか我慢した。二人はハハハハと笑いながら、ガス灯の下をくぐって、角屋の中に入った。


「おい」


「おい」


「来たぞ」


「とうとう来たな」


「これでようやく安心した」


「野田の野郎、俺のことを勇み肌の坊っちゃんだと言いやがった」


「邪魔者ってのは、俺のことだぞ。失礼千万だな」


俺と山嵐は二人の帰り道を待ち伏せしなければならない。しかし、二人はいつ出てくるか見当がつかない。山嵐は下に行って今夜は夜中に用事があって出るかもしれないから、出られるようにしておいてくれと頼んできた。今思うと、よく宿の人が承知したものだ。普通なら泥棒と間違えられるところだ。


赤シャツが来るのを待ち受けるのはつらかったが、出てくるのをじっと待っているのはもっとつらい。寝るわけにはいかないし、ずっと障子の隙間から見ているのもつらいし、どうにも、こうにも心が落ち着かなくて、これほど大変な思いをしたことは今までにない。思い切って角屋に乗り込んで現場を押さえてしまおうと提案したが、山嵐は一言で、俺の提案を却下した。自分たちが今すぐに乗り込んだって、乱暴者だと言って途中で阻止される。理由を話して面会を求めればいないと逃げるか別の部屋へ案内される。不用意に乗り込めると仮定したところで何十とある部屋のどこにいるか分かるわけがない。退屈でも出てくるのを待つしか策はないと言うから、ようやくのことでとうとう朝の5時まで我慢した。


角屋から出てくる二人の影を見るや否や、俺と山嵐はすぐ後をつけた。始発の電車はまだないから、二人とも城下まで歩かなければならない。温泉街を出ると一丁ほどの杉並木があって左右は田んぼになる。それを通り過ぎるとここかしこに藁葺きがあって、畑の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さえ出れば、どこで追いついても構わないが、できれば、人家のない、杉並木で捕まえてやろうと、見え隠れについてきた。街を出ると急に走り足の姿勢で、風のように後ろから追いついた。何が来たのかと驚き振り向く奴を待ちながら、肩に手をかけた。野田はパニックになって逃げ出そうという様子だったから、🍚



俺が前に回り、行く手を塞いでしまった。「教頭の職にある者が、何で角屋に泊まったんだ?」と、山嵐はすぐに詰め寄った。


「教頭は角屋に泊まって悪いというルールがありますか?」と赤シャツは依然として丁寧な言葉を使っている。顔の色は少々青い。「管理上、問題だから、そば屋や団子屋にさえ入ってはいけないと、言うほど真面目な人が、なぜ芸者と一緒に宿屋に泊まったんだ?」野田は逃げ出そうとするから、俺はすぐ前に立ちはだかって「ベラボーの坊っちゃんた何だ」と怒鳴りつけたら、「いえ君の事を言ったんじゃないんです、全くないんです」と鉄面皮に言い訳がましいことを言った。俺はその時、ふと気がつくと、両手で自分の袖を握りしめていた。追いかけるときに袖の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。俺はいきなり袖に手を入れて、卵を二つ取り出して、やっと言いながら、野田の顔に投げつけた。卵がぐちゃりと割れて鼻の先から黄身がだらだら流れ出した。野田はよっぽど驚いた者と見えて、わっと言いながら尻もちをついて、助けてくれと言った。俺は食うために卵は買ったが、投げつけるために袖に入れている訳ではない。ただ腹立たしさのあまりに、つい投げつけるともなしに投げつけてしまったのだ。しかし野田が尻もちをついたところを見て初めて、俺の成功した事に気がついたから、この畜生、この畜生と言いながら残りの六つを無茶苦茶に投げつけたら、野田は顔中黄色になった。


俺が卵を投げつけている間、山嵐と赤シャツはまだ話し合いの最中だった。「芸者を連れて俺が宿屋に泊まったという証拠がありますか?」


「夕方にお前の知り合いの芸者が角屋に入ったのを見たんだ。ごまかせるものか。」


「ごまかす必要はない。俺は吉川君と二人で泊まったんだ。芸者が夕方に入ろうが、入るまいが、俺の知ったことではない。」


「黙れ!」と、山嵐は拳で打った。赤シャツはよろめいたが「これは乱暴だ、暴力だ。理論をかざさずに力に訴えるのは無法だ。」


「無法でたくさんだ。」と、またぽかりと打つ。「お前のような悪党は殴らないと、答えないんだ。」とぽかぽか打つ。俺も同時に野田を散々に投げつけた。最後には二人とも杉の根元にうずくまって動けないのか、目がちらちらするのか逃げようともしない。「もうたくさんか、たくさんでなければ、まだ殴ってやる。」とぽかんぽかんと二人で打ったら「もうたくさんだ」と言った。野田に「お前もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。


「お前たちは悪党だから、こうやって天誅を加えるんだ。これで反省してこれからは慎重になれ。いくら言葉巧みに弁解しても正義は許さないぞ」と、山嵐が言ったら二人とも黙っていた。どうやら口を開くのが気まずいようだ。「俺は逃げも隠れもしない。今夜5時までは浜の港屋にいる。用があるなら警察でも何でも、呼んでこい」と、山嵐が言うから、俺も「俺も逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じところに待ってるから警察に訴えたければ、勝手に訴えろ」と言って、二人でさっさと歩き出した。


俺が下宿に帰ったのは7時少し前だった。部屋に入るとすぐに荷造りを始めたら、おばさんが驚いて、どうしたのかと聞いた。おばさん、東京に行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済ませて、すぐに電車に乗って浜に行って港屋に着くと、山嵐は二階で寝ていた。俺はすぐに辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分からないから、私事で都合があり辞職して東京に帰ることになりましたので、ご了承くださいと書いて校長宛てにして郵便で出した。


船は夜6時の出航だった。山嵐も俺も疲れて、ぐっすり寝て目が覚めたら、午後2時だった。下女に警察は来ないかと聞いたら来ませんと答えた。「赤シャツも野田も訴えなかったな」と二人は大きく笑った。その夜、俺と山嵐はこの不浄な地を後にした。船が岸を離れるほど気持ちが良かった。神戸から東京までは直行で新橋に着いた時は、ようやく世俗に出たような気がした。山嵐とはすぐに別れてから今日まで会う機会がない。


清のことを話すのを忘れていた。――俺が東京に着いて下宿にも行かず、革鞄を提げたまま、清、帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰ってきてくれたと涙をぽたぽたと落とした。俺も非常に嬉しくなり、もう田舎には帰らない。東京で清と家を持つつもりだ、と言った。


その後、ある人の紹介で街の鉄道会社の技術者になった。月給は25円で、家賃は6円だった。



俺が前に回り、行く手を塞いでしまった。「教頭の職にある者が、何で角屋に泊まったんだ?」と、山嵐はすぐに詰め寄った。


「教頭は角屋に泊まって悪いというルールがありますか?」と赤シャツは依然として丁寧な言葉を使っている。顔の色は少々青い。「管理上、問題だから、そば屋や団子屋にさえ入ってはいけないと、言うほど真面目な人が、なぜ芸者と一緒に宿屋に泊まったんだ?」野田は逃げ出そうとするから、俺はすぐ前に立ちはだかって「ベラボーの坊っちゃんた何だ」と怒鳴りつけたら、「いえ君の事を言ったんじゃないんです、全くないんです」と鉄面皮に言い訳がましいことを言った。俺はその時、ふと気がつくと、両手で自分の袖を握りしめていた。追いかけるときに袖の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。俺はいきなり袖に手を入れて、卵を二つ取り出して、やっと言いながら、野田の顔に投げつけた。卵がぐちゃりと割れて鼻の先から黄身がだらだら流れ出した。野田はよっぽど驚いた者と見えて、わっと言いながら尻もちをついて、助けてくれと言った。俺は食うために卵は買ったが、投げつけるために袖に入れている訳ではない。ただ腹立たしさのあまりに、つい投げつけるともなしに投げつけてしまったのだ。しかし野田が尻もちをついたところを見て初めて、俺の成功した事に気がついたから、この畜生、この畜生と言いながら残りの六つを無茶苦茶に投げつけたら、野田は顔中黄色になった。


俺が卵を投げつけている間、山嵐と赤シャツはまだ話し合いの最中だった。「芸者を連れて俺が宿屋に泊まったという証拠がありますか?」


「夕方にお前の知り合いの芸者が角屋に入ったのを見たんだ。ごまかせるものか。」


「ごまかす必要はない。俺は吉川君と二人で泊まったんだ。芸者が夕方に入ろうが、入るまいが、俺の知ったことではない。」


「黙れ!」と、山嵐は拳で打った。赤シャツはよろめいたが「これは乱暴だ、暴力だ。理論をかざさずに力に訴えるのは無法だ。」


「無法でたくさんだ。」と、またぽかりと打つ。「お前のような悪党は殴らないと、答えないんだ。」とぽかぽか打つ。俺も同時に野田を散々に投げつけた。最後には二人とも杉の根元にうずくまって動けないのか、目がちらちらするのか逃げようともしない。「もうたくさんか、たくさんでなければ、まだ殴ってやる。」とぽかんぽかんと二人で打ったら「もうたくさんだ」と言った。野田に「お前もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。


「お前たちは悪党だから、こうやって天誅を加えるんだ。これで反省してこれからは慎重になれ。いくら言葉巧みに弁解しても正義は許さないぞ」と、山嵐が言ったら二人とも黙っていた。どうやら口を開くのが気まずいようだ。「俺は逃げも隠れもしない。今夜5時までは浜の港屋にいる。用があるなら警察でも何でも、呼んでこい」と、山嵐が言うから、俺も「俺も逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じところに待ってるから警察に訴えたければ、勝手に訴えろ」と言って、二人でさっさと歩き出した。


俺が下宿に帰ったのは7時少し前だった。部屋に入るとすぐに荷造りを始めたら、おばさんが驚いて、どうしたのかと聞いた。おばさん、東京に行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済ませて、すぐに電車に乗って浜に行って港屋に着くと、山嵐は二階で寝ていた。俺はすぐに辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分からないから、私事で都合があり辞職して東京に帰ることになりましたので、ご了承くださいと書いて校長宛てにして郵便で出した。


船は夜6時の出航だった。山嵐も俺も疲れて、ぐっすり寝て目が覚めたら、午後2時だった。下女に警察は来ないかと聞いたら来ませんと答えた。「赤シャツも野田も訴えなかったな」と二人は大きく笑った。その夜、俺と山嵐はこの不浄な地を後にした。船が岸を離れるほど気持ちが良かった。神戸から東京までは直行で新橋に着いた時は、ようやく世俗に出たような気がした。山嵐とはすぐに別れてから今日まで会う機会がない。


清のことを話すのを忘れていた。――俺が東京に着いて下宿にも行かず、革鞄を提げたまま、清、帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰ってきてくれたと涙をぽたぽたと落とした。俺も非常に嬉しくなり、もう田舎には帰らない。東京で清と家を持つつもりだ、と言った。


その後、ある人の紹介で街の鉄道会社の技術者になった。月給は25円で、家賃は6円だった。清は玄関付きの家でなくても全く満足そうだったが可哀想なことに今年の2月に肺炎にかかって死んでしまった。死ぬ前日、俺を呼んで坊っちゃん、清が死んだら、坊っちゃんのお寺に埋めてください。お墓の中で坊っちゃんの来るのを楽しみに待っていますと言った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。



𝑅𝑒𝓁𝒶𝓍 𝒮𝓉𝑜𝓇𝒾𝑒𝓈𝒯𝒱

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