坊っちゃん七~八
坊っちゃん・夏目漱石:七~八
現代語訳:Relax Stories TV
俺はその夜すぐに下宿を引き払った。
宿へ帰って荷物をまとめていると、女将が何か不都合でもあったのか、お腹の立つことがあるなら、言ってくれたら改めますと言う。どうも驚いた。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり揃っているんだろう。
出てもらいたいのか、居てもらいたいのか分からない。まるで気が狂ったようだ。こんな者を相手に喧嘩をしたって江戸っ子の名折れだから、車屋を連れて来てさっさと出てきた。
出たことは出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ行きますかと言うから、黙ってついて来い、すぐに分かると言って、すたすた歩いて来た。
面倒だから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手間だ。こうして歩いているうちに下宿とか、何とか看板のある家を見つけ出すだろう。
そうしたら、そこが天意に叶った俺の宿ということにしよう。とぐるぐる、閑静で住みよさそうな所を歩いているうち、とうとう鍛冶屋街へ出てしまった。
ここは士族の屋敷で下宿屋などのある街ではないから、もっと賑やかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといいことを考え付いた。
俺が敬愛する浦成君はこの街内に住んでいる。浦成君は土地の人で、先祖代々の屋敷を持っているくらいだから、この辺の事情には通じているに違いない。
あの人を尋ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかもしれない。幸い一度挨拶に来て勝手は知っているから、探して歩く面倒はない。
ここだろうと適当に見当をつけて、「ごめん、ごめん」と二回ばかり言うと、奥から五十ぐらいの年寄りが古風な紙燭をつけて出て来た。
俺は若い女も嫌いではないが、年寄りを見ると何だか懐かしい気持ちがする。大方清が好きだから、その魂が色々なおばあさんに乗り移るんだろう。
これは大方浦成君のお母さんだろう。品格のある婦人だが、よく浦成君に似ている。まあ上がってと言うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関まで呼び出して、実はこれこれだが君どこか心当たりはありませんかと尋ねてみた。
浦成先生、それはさぞお困りでしょう、としばらく考えていたが、この裏街に萩野と言って老人夫婦で暮らしている者がいる。
いつか座敷を空けておいても無駄だから、確かな人があるなら貸してもいいから紹介してくれと頼んだことがある。
今でも貸すかどうか分からないが、まあ一緒に行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。
その夜から萩野の家の下宿人となった。驚いたのは、俺がいか銀の部屋を引き払うと、翌日から入れ違いに野田が平気な顔をして、俺のいた部屋を占領したことだ。
さすがの俺もこれには呆れた。世の中はいかさま師ばかりで、お互いに乗せっこをしているのかもしれない。いやになった。
世間がこんなものなら、俺も負けない気で、世間並みにしなくちゃ、やりきれない訳になる。巾着切りの上前をはねなければ、三度のご飯が食べられないと、事が極まればこうして、生きているのも考え物だ。
と言ってぴんぴんした元気な体で、首を吊っちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。考えると物理学校などへ入って、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本にして牛乳屋でも始めればよかった。
そうすれば清も俺の側を離れずに済むし、俺も遠くからおばあさんのことを心配しないで暮らせる。一緒にいるうちは、そうでもなかったが、こうして田舎へ来てみると清はやっぱり善人だ。
あんな気立てのいい女は日本中探してもめったにはない。おばあさん、俺が立つときに少々風邪を引いていたが、今頃はどうしているか知らん。
先だっての手紙を見たら、さぞ喜んだろう。それにしても、もう返事が来そうなものだが――俺はこんなことばかり考えて二三日暮らしていた。
気になるから、宿のおばあさんに、「東京から手紙は来ませんか」と時々尋ねてみるが、聞くたびに何にも来てませんと気の毒そうな顔をする。
ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方とも上品だ。おじいさんが夜になると、変な声を出して歌を歌うには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうと無闇に出て来ないから大いに楽だ。
おばあさんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、一緒にお出でなんだのぞなもしなどと質問をする。
奥さんがあるように見えますかね。可哀想にこれでもまだ二十四ですぜと言ったら、それでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭を置いて、どこの誰だれさんは二十でお嫁をお貰いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて反駁を試みたには恐れ入った。
それじゃ僕も二十四でお嫁をお貰えるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似て頼んでみたら、おばあさんは正直に本当かなもしと聞いた。
「本当の本当のほんまのって、僕は嫁が欲しくて仕方がないんだ。そうだろうね、若いうちは誰もそんなものだよね。」
この挨拶には、痛み入って返事ができなかった。「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極きまっている。私はちゃんと、もう、見ているぞなもし。」
「へえ、鋭い目だね。どうして、見ているんですか?どうしててて。東京から便りはないか、毎日便りを待ち焦がれておいでるじゃないかなもし。」
「こいつは驚いた。大変な鋭い目だ。」「当たりましたろうがな、もし。そうですね。当たったかも知れませんよ。」
「しかし今時の女子は、昔と違って油断ができんけれ、気を付けた方がいいぞなもし。何ですかい、僕の奥さんが東京で浮気でもしていますかい?」
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれ……それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい?」
「あなたのことは確かじゃが、どこに不確かな者が居ますかね。ここらにも大分居おります。先生、あの遠山のお嬢さんをご存知かなもし?」
「いいえ、知りませんね。まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の美人さんじゃがなもし。あまりに美人なので、学校の先生方は皆「マドンナ」と呼んでいるそうだな。まだお聞きんのかなもし。」
「うん、マドンナですか。僕は芸者の名かと思った。」「いいえ、あなた。マドンナと云うと外国人の言葉で、美人さんのことじゃろうがなもし。」
「そうかも知れないね。驚いた。大方、画学の先生がお付けた名ぞなもし。」
「野だがつけたんですかい?」「いいえ、あの吉川先生がお付けたのじゃがなもし。」
「そのマドンナが不たしかなんですかい?そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでな、もし。」
「厄介だね。渾名の付いてる女には昔から碌なものは居ませんからね。そうかも知れませんよ。」
「ほんとうにそうじゃなもし。鬼神のお松や、妲妃のお百など怖い女が居ましたなもし。」
「マドンナもその同類なんですかね?そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話してくれた古賀先生なもし――あの方の所へお嫁に行く約束が出来ていたのじゃがなもし――」
「へえ、不思議なもんですね。あの浦成君が、そんな艶福のある男とは思わなかった。人は見かけによらない者だな。ちっと気を付けよう。」
「ところが、去年、あすこのお父さんが亡くなってしまった。それまではお金もあり、銀行の株も保有していたのだが、それからというものは、どういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過ぎるけれ、お欺まされたんぞなもし。それや、これやでお輿入れも延びているところに、あの教頭さんがお出いでて、是非お嫁にほしいとお云いでるのじゃがなもし。」
「あの赤シャツがですか。ひどい奴だ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「人を頼んで懸合をしようと思って、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来ないと言ったんだ。すると赤シャツさんが、手綱を求めて遠山さんの方へ出入りし、とうとうあなた、お嬢さんを手なずけてしまったのです。赤シャツさんも問題ですが、お嬢さんも皆に悪く言われていますよ。一度古賀さんへ嫁に行くと約束をしたのに、今さら学士さんが現れて、その方に替えようと言って、それじゃ、今日様には済まないでしょう。」
「全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこないよ。」
「それで古賀さんにお気の毒だと、お友達の堀田さんが教頭の所へ意見をしに行ったら、赤シャツさんが、約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰うかも知れないが、今のところは遠山家とただ交際をしているだけだ。遠山家と交際をするには別段古賀さんに済まない事もないだろうと言って、堀田さんも仕方がないと帰ったそうだ。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来仲が悪いという評判だよ。」
「よくいろいろな事を知ってますね。どうしてそんなに詳しいことが分かるのですか?感心しました。」
「狭いから何でも分かりますよ。」分かり過ぎて困るくらいだ。この様子じゃ俺の天ぷらや団子の事も知ってるかも知れない。厄介な所だ。しかしおかげでマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。ただ困るのは、どちらが本当に悪者なのかがはっきりしないことです。俺のような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をしていいか分からない。
「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね?」
「山嵐て何ぞなもし。」
「山嵐というのは堀田の事ですよ。」
「そりゃ強い事は堀田さんの方が強そうだけど、しかし赤シャツさんは学士さんだから、働きはある方だよ。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がいいというよ。」
「つまりどっちがいいんですかね。」
「つまり月給の多い方が偉いのだろうね。」
これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。それから二三日して学校から帰ると、おばあさんがにこにこして、「へえ、お待たせしました。やっと来ました。」と言って一本の手紙を持って来て、ゆっくりご覧と言って出て行った。取り上げてみると、清からの便りだ。封筒が二三枚まい付いているから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ回って、いか銀から、萩野へ回って来たのである。その上、山城屋では一週間ばかり滞在している。宿屋だけに手紙まで止めるつもりなんだろう。開いてみると、実に長い手紙だった。坊っちゃんの手紙を頂いてから、すぐに返事を書こうと思った。しかし、あいにく風邪を引いて一週間ばかり寝ていたため、つい遅くなってしまった。その上、今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、書くのによっぽど骨が折れる。甥に代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分で書かなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ下書きを一度して、それから清書をした。清書をするには二日で済んだが、下書きをするには四日かかった。読みにくいかも知れないが、これでも一生懸命に書いたのだから、どうぞ最後まで読んでくれ。という冒頭で四尺ばかり何やらかやらと書き連ねてある。なるほど読みにくい。字がまずいばかりではない、大抵平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読をつけるのによっぽど骨が折れる。俺は焦れったい性分だから、こんなに長くて分かりにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断る。しかし、この時ばかりは真面目になって、最初から最後まで読み通した。読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。部屋の中は少し暗くなり、前回よりも見にくくなったので、とうとう軒先へ出て腰をかけ、丁寧に手紙を拝見した。すると、初秋の風が芭蕉の葉を動かして、素肌に吹きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、最後には四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、向こうの生垣まで飛んで行きそうだ。俺はそんな事には構っていられない。坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ肝癪が強過ぎてそれが心配になる。――他の人に無暗に渾名なんかつけるのは、人に恨まれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない。もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。――田舎者は人が悪いそうだから、気をつけてひどい目に遭わないようにしろ。――気候だって東京より不順に極ってるから、寝冷えをして風邪を引いてはいけない。坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、様子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。――宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困らないか、田舎へ行って頼りになるのはお金ばかりだから、なるべく倹約して、万一の時に差支えないようにしなくっちゃいけない。――お小遣いがなくて困るかも知れないから、為替で十円あげる。――先だって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――なるほど、女性というのは細やかな心遣いを持っているものだ。
以上が最終的な原文です。これで修正を完了しました。次の段階に進む準備ができています。
これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。
それから二三日して学校から帰ると、おばあさんがにこにこして、「へえ、お待たせしました。やっと来ました。」と言って一本の手紙を持って来て、ゆっくりご覧と言って出て行った。
取り上げてみると、清からの便りだ。封筒が二三枚まい付いているから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ回って、いか銀から、萩野へ回って来たのである。
その上、山城屋では一週間ばかり滞在している。宿屋だけに手紙まで止めるつもりなんだろう。
開いてみると、実に長い手紙だった。坊っちゃんの手紙を頂いてから、すぐに返事を書こうと思った。しかし、あいにく風邪を引いて一週間ばかり寝ていたため、つい遅くなってしまった。
その上、今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、書くのによっぽど骨が折れる。
甥に代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分で書かなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ下書きを一度して、それから清書をした。
清書をするには二日で済んだが、下書きをするには四日かかった。読みにくいかも知れないが、これでも一生懸命に書いたのだから、どうぞ最後まで読んでくれ。
という冒頭で四尺ばかり何やらかやらと書き連ねてある。なるほど読みにくい。字がまずいばかりではない、大抵平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読をつけるのによっぽど骨が折れる。
俺は焦れったい性分だから、こんなに長くて分かりにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断る。しかし、この時ばかりは真面目になって、最初から最後まで読み通した。
読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。
部屋の中は少し暗くなり、前回よりも見にくくなったので、とうとう軒先へ出て腰をかけ、丁寧に手紙を拝見した。
すると、初秋の風が芭蕉の葉を動かして、素肌に吹きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、最後には四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、向こうの生垣まで飛んで行きそうだ。
俺はそんな事には構っていられない。坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ肝癪が強過ぎてそれが心配になる。
――他の人に無暗に渾名なんかつけるのは、人に恨まれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない。もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。
――田舎者は人が悪いそうだから、気をつけてひどい目に遭わないようにしろ。
――気候だって東京より不順に極ってるから、寝冷えをして風邪を引いてはいけない。
坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、様子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。
――宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困らないか、田舎へ行って頼りになるのはお金ばかりだから、なるべく倹約して、万一の時に差支えないようにしなくっちゃいけない。
――お小遣いがなくて困るかも知れないから、為替で十円あげる。
――先だって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。
――なるほど、女性というのは細やかな心遣いを持っているものだ。
俺が椽側で清の手紙を開いていながら考え込んでいると、しきりの襖を開けて、萩野のお婆さんが晩飯を持ってきた。
「まだ見てお出でるのかなもし。えらいほど長いお手紙じゃなもし」と言ったから、「ええ、大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだ」と自分でも要領を得ない返事をして膳についた。
見ると今夜も薩摩芋の煮付けだ。ここの家は、いか銀よりも鄭寧で親切で、しかも上品だが、惜しいことに食い物がまずい。
昨日も芋、一昨日も芋で今夜も芋だ。俺は芋が大好きだと明言したが、こう立て続けに芋を食わされては命が続かない。
裏なり君を笑うどころか、俺自身も、そう遠くないうちに、芋ばかり食べる裏なり先生になってしまうだろう。
清ならこんな時に、俺の好きな鮪の刺身か、蒲鉾の焼き物を食わせるんだが、貧乏士族のけちん坊と来ちゃ仕方がない。
どう考えても清と一緒でなくっちゃ駄目だ。もしあの学校に長くでも居る模様なら、東京から呼び寄せてやろう。
天ぷらそばを食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。
禅宗の坊主だって、これよりは口に栄養をさせているだろう。――俺は一皿の芋を平らげて、机の引き出しから生卵を二つ出して、茶碗の縁でたたき割って、ようやく凌いだ。
生卵ででも栄養を取らなくっちゃ一週二十一時間の授業が出来るものか。
今日は清からのメールで温泉に行く時間が遅くなった。でも、毎日行っている温泉を一日でも欠かすのは気持ちが悪い。
電車にでも乗って出かけようと、いつもの赤いハンカチをぶら下げて駅まで来たら、ちょうど発車したばかりで、少し待たなければならない。
ベンチに腰掛けてタバコを吹かしていると、偶然にも裏なり君がやって来た。
俺はさっきの話を聞いてから、裏なり君がますます気の毒になった。
普段から世間に住みついているように控えめに振る舞っているのが本当に哀れに見えたが、今夜は哀れどころの騒ぎではない。
できるならば給料を倍にして、遠山のお嬢さんと明日から結婚させて、一ヶ月ばかり東京へでも遊びに行かせたい気がした矢先だから、「お湯ですか、さあ、こっちへ座ってください」と元気よく席を譲ると、裏なり君は恐縮した様子で、「いえ、邪魔をしてしまいますから」と遠慮したり何だかやっぱり立っている。
「少し待たなくては出ません、疲れますから座ってください」とまた勧めてみた。
実はどうにかして、そばに座ってもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。
「それでは邪魔をしてしまいましょう」とようやく俺の言うことを聞いてくれた。
世の中には、出なくてもいいところに顔を出す生意気な奴もいる。
山嵐のように俺がいなくては日本が困るだろうと言うような顔を肩の上に乗せている奴もいる。
そうかと思うと、赤シャツのように化粧品と色男の問屋を自ら任じているのもある。
教育が生きてスーツを着れば俺になるんだと言わんばかりの狸もいる。皆々それ相応に威張ってるんだが、この裏なり先生のように存在しながら存在しないように、人質に取られた人形のように大人しくしているのは見たことがない。
顔はふくれているが、こんな立派な男を捨てて赤シャツに靡くなんて、マドンナもよっぽど気の知れない女だ。
赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様が出来るもんか。
「あなたはどこか具合が悪いんですか。かなり疲れて見えますが……」
「いえ、特にこれという持病もないですが……」
「それなら良いですね。体が悪いと人間もダメですから」
「あなたはかなり丈夫そうですね」
「ええ、痩せても病気はしません。病気なんてものは大嫌いですから」
裏なり君は、俺の言葉を聞いてにっこりと笑った。
ところへ入口で若々しい女性の笑い声が聞こえたから、何気なく振り返ってみるとすごい人が来た。
色白でおしゃれな髪型の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立っている。
俺は美人の形容などが出来る男でないから何にも言えないが、全く美人に違いない。
何だか水晶の珠を香水で温めて、手のひらに握ってみたような心持ちがした。
年配の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。
俺は、や、来たなと思う途端に、裏なり君のことは全然すっかり忘れて、若い女性の方ばかり見ていた。
すると、裏なり君が突然俺の隣から立ち上がり、そろそろ女性の方へ歩き出したんで少し驚いた。
マドンナじゃないかと思った。
三人は切符売り場の前で軽く挨拶している。遠いから何を言ってるのか分からない。
駅の時計を見るともう五分で発車だ。早く電車が来ればいいなと、話し相手がいなくなったので待ち遠しく思っていると、また一人慌てて駅の中へ駆け込んで来たものがある。
見れば赤シャツだ。何だか派手な服に縮緬の帯をゆるく巻き付けて、例の通り金のネックレスをぶらつかせている。あのネックレスは偽物だ。赤シャツは誰も知らないと思って、見せびらかしているが、俺はちゃんと知っている。
赤シャツは駆け込んだなり、何かキョロキョロしていたが、切符売り場の前に話している三人へ丁寧にお辞儀をして、何か二つ、三つ言ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足で歩いて来て、「やあ、君も温泉ですか? 僕は乗り遅れないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計は正確かしらん」と、自分の金の腕時計を出して、二分ほど違っていると言いながら、俺の隣へ腰を下ろした。
女性の方はちっとも見返らず、杖の上に顎をのせて、正面ばかり眺めている。年配の女性は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままだ。いよいよマドンナに違いない。
やがて、ピーッと電車のホーンが鳴り、電車が到着した。待ち合わせた連中はぞろぞろと自信満々に乗り込む。赤シャツは一番乗りでグリーン車へ飛び込んだ。グリーン車に乗ったって威張れるどころではない。住田までグリーン車が五百円、普通車が三百円だから、わずか二百円違いで上下の区別がつく。こういう俺でさえグリーン車を奮発して白い切符を握っているんだからわかる。
もっとも田舎者はけちだから、たった二百円の差でもすごく苦になると見えて、大抵は普通車に乗る。赤シャツの後からマドンナとマドンナの母親がグリーン車に入っていった。裏なり君は活版印刷のように普通車ばかりに乗る男だ。先生は普通車のドアに立って、何だか躊躇の様子であったが、俺の顔を見るや否や思い切って飛び込んでしまった。
俺はこの時何となく気の毒でたまらなかったから、裏なり君の後からすぐ同じ車両に乗り込んだ。グリーン車の切符で普通車に乗るに不都合はなかろう。
温泉に着いて、三階から浴衣のままで湯船へ下りてみたら、また裏なり君に会った。俺は会議や何かでいざとなると喉が詰まって話せない男だが、普段はかなりおしゃべりな方だから、いろいろ湯船の中で裏なり君に話しかけてみた。
何だか哀れでたまらない。こんな時に一言でも相手の心を慰めてやるのは、東京っ子の義務だと思っている。ところがあいにく裏なり君の方では、うまくこっちの調子に乗ってくれない。何を言っても、「え」とか「いえ」とかばかりで、しかもその「え」と「いえ」が大分面倒そうなので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちから失礼した。
湯の中では赤シャツに会わなかった。もっとも風呂の数はたくさんあるのだから、同じ電車で着いても、同じ湯船で会うとは限らない。別段不思議にも思わなかった。
風呂を出てみるといい月だ。街内の両側に柳が植えてあり、柳の枝が丸い影を通りの中へ落としている。少し散歩でもしよう。北へ登って街のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当たりがお寺で、左右が遊郭である。
山門の中に遊郭があるなんて、こんなことは初めてだ。ちょっと入ってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い暖簾をかけた、小さな格子窓の平屋は俺が団子を食べて、しくじった所だ。
丸提灯に汁粉、お雑煮と書いてあるのがぶら下がっていて、提灯の火が、軒端に近い一本の柳の幹を照らしている。食べたいなと思ったが、我慢して通り過ぎた。
食べたい団子が食べられないのは情けない。しかし自分の婚約者が他人に心を移したのは、さらに情けないだろう。裏なり君のことを思うと、団子なんて馬鹿馬鹿しい、三日ぐらい断食しても不平はこぼせないわけだ。本当に人間ほどあてにならないものはない。
あの顔を見ると、どうしてもそんな非情なことをするとは思えないのだが――美しい人が非情で、冬瓜のような古賀さんが善良な紳士なのだから、油断ができない。淡泊だと思った山嵐は生徒を扇動したと言うし、生徒を扇動したのかと思うと、生徒の処分を校長に迫るし。厭味で練り固めたような赤シャツが意外と親切で、俺に余所者ながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを騙したり、騙したのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと言うし。
いか銀が難癖をつけて、俺を追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入れ替わったり――どう考えても信頼できない。こんなことを清に書いてやったらきっと驚くことだろう。箱根の向こうだから化物が寄ってるんだと言うかもしれない。俺は、生来気にしない性分だから、どんなことでも苦にしないで今日まで乗り切ってきたのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世の中を物騒に思い出した。
別段大事件にも出会わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡って野芹川の堤へ出た。川と言うと大げさだが実は一間ぐらいの、ちょろちょろした流れで、堤に沿って十二丁ほど下ると相生村へ出る。
村には観音様がある。温泉の街を振り返ると、赤い灯が月の光の中で輝いている。太鼓が鳴るのは遊郭に違いない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。ぶらぶら堤の上を歩きながら、約三丁も来たと思ったら、向うに人影が見え出した。月に透かしてみると影は二つある。温泉へ来て村へ帰る若者かもしれない。それにしては歌も歌わない。存外静かだ。
だんだん歩いて行くと、俺の方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。俺の足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離に迫った時、男がたちまち振り向いた。月は後ろから照らしている。その時、俺は男の様子を見て不思議に思った。男と女はまた元の通りに歩き出した。
俺は考えがあるから、急に全速力で追いかけた。先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を進めている。今は話し声も手に取るように聞こえる。堤の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。俺は苦もなく後ろから追い付いて、男の袖をすり抜けざま、二足前へ出した踵をぐるりと返して男の顔を覗き込んだ。月は正面から俺の五分刈りの頭から顎の辺りまで、会釈もなく照らす。
男はあっと小声に言ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を促すながすが早いか、温泉の街の方へ引き返した。赤シャツは図太くて騙すつもりなのか、それとも気が弱くて名乗り損なったのかしら。ところが狭くて困ってるのは、俺ばかりではなかった。
八、
赤シャツに勧められて釣りに行った帰りから、山嵐を疑い始めた。何もないことを理由に下宿を出て行けと言われた時は、まさに不謹慎な奴だと思った。しかし会議の席では案の定、生徒厳罰論を滔々と述べたから、おや、変だなと首を傾げた。
萩野のおばあさんから、山嵐が裏なり君のために赤シャツと交渉をしたと聞いた時は、それは感心だと手を叩いた。この様子では悪者は山嵐じゃない、赤シャツのほうが曲がっているんだ、適当な邪推を真実そうに、しかも遠回しに、俺の頭の中に浸透させたのではないかと迷っている矢先に、野芹川の堤で、マドンナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来、赤シャツは怪しい男だと決めつけてしまった。
曲者だか何だかよくは分からないが、ともかくも善い男じゃない。表と裏とが違った男だ。人間は竹のように真っ直ぐでなくっちゃ頼もしくない。真っ直ぐなものは喧嘩をしても心持ちがいい。赤シャツのような優しい、親切で、高尚な男が琥珀のパイプを自慢そうに見せびらかすのは、油断ができない、めったに喧嘩もできないと思った。
喧嘩をしても、回向院の相撲のような心持ちのいい喧嘩はできないと思った。そうなると一銭五厘の出入で全体を驚かせた議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。会議の時に金壺眼を剥いて、俺を睨んだ時は憎らしい奴だと思ったが、後で考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫声よりはましだ。
実はあの会議が終わった後で、よっぽど仲直りをしようかと思って、一こと二こと話しかけてみたが、野郎は、返事もせずに、まだ目を剥いて見せたので、こちらも腹が立ってそのままにしておいた。それ以来、山嵐は俺と口を利かない。机の上に返した一銭五厘はまだ机の上に乗っている。ほこりだらけになって乗っている。俺はもちろん手が出せない、山嵐は決して持って帰らない。この一銭五厘が二人の間の壁になって、俺は話そうと思っても話せない、山嵐は頑として黙っている。俺と山嵐の間には一銭五厘が祟った。結局は学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。
山嵐と俺が絶交の状態になった一方で、赤シャツと俺は依然として以前の関係を保ち、交際を続けている。野芹川で会った翌日などは、学校へ出ると最初に俺のところへ来て、「君、今度の下宿はいいですか」「また一緒にロシア文学を釣りに行こうじゃないか」といろいろなことを話しかけた。
俺は少々憎らしかったから、「昨夜は二度会いましたね」と言ったら、「ええ、駅で――君はいつもあの時間に出かけるのですか、遅いじゃないか」と言う。「野芹川の堤でもお目にかかりましたね」と突っ込んでやったら、「いいえ、僕はあっちへは行かない、湯に入って、すぐ帰った」と答えた。何もそんなに隠さなくてもいいだろう、現に会っているんだ。よく嘘をつく男だ。これで中学の教頭が務まるなら、俺なんか大学総長が務まる。
俺はこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなった。信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。世の中は随分奇妙なものだ。ある日のこと、赤シャツが「ちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれ」と言うから、惜しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時頃に出かけて行った。
赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとっくの昔に引き払って立派な玄関を構えている。家賃は九千五百円だそうだ。田舎へ来て九千五百円払えばこんな家に入れるなら、俺も一つ奮発して、東京から清を呼び寄せて喜ばせてやろうと思ったくらいな玄関だ。頼むと言ったら、赤シャツの弟が取次に出て来た。この弟は学校で、俺に代数と算術を教わる至って出来の悪い子だ。そのくせ移り気だから、生まれついての田舎者よりも人が悪い。
赤シャツに会って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな臭いタバコを吹きながら、こんなことを言った。「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績がよく上がって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼しているのだから、そのつもりで勉強していただきたい」
「へえ、そうですか、勉強って今より勉強は出来ませんが――」
「今のくらいで充分です。ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずにいて下さればいいのです」
「下宿の世話なんかするものあ剣呑だという事ですか」
「そう露骨に言うと、意味もない事になるが――まあいいさ――精神は君にもよく通じている事と思うから。そこで君が今のように出勤して下されば、学校の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合さえつけば、待遇の事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」
「へえ、給料ですか。給料なんかどうでも」いいんですが、上がれば上がった方がいいですね」
「それで幸い今度転任者が一人できるから――もっとも校長に相談してみないと、無論受け合えないことだが――その給料から少しは融通が利くかもしれないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね。」
「どうもありがとう。誰が転任するんですか?」
「もう発表になるから話しても差し支えないでしょう。実は古賀君です。」
「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか。」
「ここの地元の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です。」
「どこへ行くんです?」
「日向の延岡で――土地が土地だから一級給上がって行くことになりました。」
「誰か代わりが来るんですか?」
「代わりも大抵決まってるんです。その代わりの具合で君の待遇上の都合もつくんです。」
「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構いません。」
「ともかく、僕は校長に話すつもりです。それで、校長も同意見らしいが、追って君にもっと働いていただかなくてはならなくなるかもしれないから、どうか今からそのつもりで覚悟しておいてほしいですね。」
「今より時間でも増すんですか?」
「いいえ、時間は今より減るかもしれませんが――」
「時間が減って、もっと働くんですか、妙だな。」
「ちょっと聞くと妙だが、――はっきりとは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な責任を持ってもらうかもしれないという意味なんです。」
俺には一向分からない。今より重大な責任と言えば、数学の主任だろうが、主任は山嵐だから、やっこさんなかなか辞職する気遣いはない。それに、生徒の人望があるから転任や免職は学校にとって得策ではないだろう。赤シャツの談話は、いつも要領を得ない。要領を得なくても用事はこれで済んだ。それから少し雑談をしているうちに、裏なり君の送別会をやることや、ついては俺が酒を飲むかという問や、裏なり先生は君子で愛すべき人だということや――赤シャツはいろいろ弁じた。しまいに話を変えて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに釣瓶をとられてたまるものか。
帰ってじっくり考え込んだ。世間には随分理解しきれない男がいる。家もあるし、勤める学校に不足のない故郷が嫌になったからと言って、知らない他国へ苦労を求めに出る。それも花の都の電車が通ってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何のことだ。俺は船便のいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなってしまった。延岡と言えば山の中も山の中も大変な山の中だ。赤シャツの言うところによると、船から上がって、一日馬車に乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日車に乗らなくては着けないそうだ。名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。猿と人が半々に住んでいるような気がする。いかに聖人の裏なり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物好きだ。
ところで、相変わらずおばあさんが夕食を運んできた。今日もまた芋ですかと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐だと言った。どっちにしたって似たものだ。
「おばあさん、古賀さんは日向へ行くそうですね。」
「本当にお気の毒だわ。」
「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね。」
「好んで行くって、誰がそう言ったの?」
「誰がそう言ったって、当人がさ。古賀先生が物好きに行くんじゃありませんか。」
「それはあなた、大違いの勘違いだわ。」
「勘違いかね。だって今赤シャツがそう言いましたよ。それが勘違いなら赤シャツは嘘つきの大ぼら吹きだ。」
「教頭さんが、そう言うのはもっともだけど、古賀さんの行きたくないのももっともだわ。」
「そんなら両方もっともなんですね。おばあさんは公平でいい。一体どういう訳なんですか?」
「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳を話したのよ。」
「どんな訳を話したんです?」
「あそこもお父さんが亡くなってから、私たちが思うほど生活が豊かにならず困っていて、お母さんが校長さんに頼んで、もう四年も勤めているものだから、どうぞ毎月もらうものを、今少しふやしてくれないかと、あなた。」
「なるほど。」
「校長さんが、よし、考えてみようと言ったんだ。それでお母さんも安心して、今に昇給の連絡があるだろう、今月か来月かと首を長くして待っていたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんに言ったんだけど、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りないから、給料を上げる訳にはいかない。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五百円余分にもらえるから、お望み通りでよかろうと思って、その手続きをしたから、行くように言われたんだ。――「じゃ、相談じゃない、命令じゃありませんか?」
「そうよ。古賀さんは、他所へ行って給料が増すより、元のままでもいいから、ここにいたい。家もあるし、母もいるからと頼んだけど、もうそう決めたあとで、古賀さんの代わりは出来ているから仕方がないと校長が言ったんだ。」
「変な人を馬鹿にしているだけでは、面白くもない。じゃ、古賀さんは行く気はないんですね。どうして変だと思ったのか。五百円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く変わり者はまずないからね。」
「唐変木って、先生なんて言うんですか?」
「何でもいいですよ。――全く赤シャツの策略ですね。よくない仕打ちだ。まるで詐欺ですね。それで僕の給料を上げるなんて、不都合なことがあるものか。上げてやるって言うから、断ろうと思います。」
「どうして断るんですか?」
「何でも断ります。おばあさん、あの赤シャツは馬鹿ですよ。卑怯でさあ。」
「卑怯でも、あなた、給料を上げてくれたら、大人しく受け取っておく方が得だと思いますよ。若いうちはよく腹が立つものですが、年をとってから考えると、もう少しの我慢があったのに惜しいことをした。腹を立てたために、こんなに損をしたと後悔するのが当然ですよ。おばあさんの言うことを聞いて、赤シャツさんが給料を上げてくれると言ったら、ありがたく受け取っておきなさい。」
「年寄りのくせに余計な世話を焼かなくてもいい。僕の給料は上がろうと下がろうと、僕の給料だ。」
おばあさんは黙って引き込んだ。おじいさんはのんびりとした声で歌を歌っている。歌というものは、読んで理解できる部分に無理に難しい節をつけて、わざと分かりにくくする術だろう。あんな人を毎晩飽きずに唸っているおじいさんの気が知れない。僕は歌なんて騒ぎじゃない。給料を上げてやろうと言うから、特に欲しくはなかったが、入らない金を余らせておくのももったいないと思い、承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させて、その男の給料の上前を跳ねるなんて非情なことができるものか。当人がもとの通りでいいと言うのに、延岡まで落とさせるとは一体どういう了見だろう。太宰権帥だって博多近辺で落ち着いたものだ。河合又五郎だって相良で止まっているじゃないか。とにかく赤シャツの所へ行って断って来なくっちゃ気が済まない。
小倉の袴をつけてまた出掛けた。大きな玄関へ立って頼むと言うと、また例の弟が取次に出てきた。僕の顔を見て、また来たかという目つきをした。用があれば二度だって三度だって来る。夜中だって叩き起こさないとは限らない。教頭の所へご機嫌伺いに来るような僕と見損なっているか。これでも給料が入らないから返しに来たんだ。すると弟が「今来客中だ」と言うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと言ったら、奥へ引き込んだ。足元を見ると、畳付きの薄っぺらな、のめりの駒下駄がある。奥でもう万歳ですよと言う声が聞こえる。お客とは野だなと気がついた。野でなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人みたいな下駄を履くものはない。
しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、「まあ上がりなさい、外の人じゃない吉川君だ」と言うから、「いえ、ここでたくさんです。ちょっと話せばいいんです」と言って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。野だ公と一杯飲んでいると見える。
「さっき僕の給料を上げてやるという話でしたが、少し考えが変わったので、断りに来たんです。」赤シャツはランプを前に出して、奥の方から僕の顔を眺めたが、とっさの返事をしかねて茫然としている。給料の増額を断る奴が世の中に一人だけ現れたのを不審に思ったのか、断るにしても、今帰ったばかりで、すぐに出直してこなくてもよさそうなものだと呆れたのか、またはその両方が合わさったのか、妙な表情で突っ立ったままである。
「古賀君が自分の希望で転任するという話でしたから……」
「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです。」
「そうじゃないんです。ここに居たいんです。元の給料でもいいから、郷里に居たいのです。」
「君は古賀君から、そう聞いたのですか?」
「そりゃ当人から、聞いたわけじゃありません。」
「じゃ、誰から聞きましたか?」
「僕の下宿のおばあさんが、古賀さんのお母さんから聞いたことを今日僕に話したのです。」
「じゃ、下宿のおばあさんがそう言ったのですね。」
「まあ、そうです。」
「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたの言う通りだと、下宿屋のおばあさんの言うことは信じるが、教頭の言うことは信じないというように聞こえますが、そういう意味に解釈しても差し支えないでしょうか。」
僕はちょっと困った。文学士なんてものは、やはり立派なものだ。妙なところにこだわって、ねちねち押し寄せてくる。僕はよく親父から「貴様はそそっかしくてダメだ」と言われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。おばあさんの話を聞いてはっと思って飛び出してきたが、実は裏なり君にも裏なりのお母さんにも会って詳しい事情は聞いていなかったのだ。だからこう文学士流に斬り付けられると、少し受け入れがたい。
正面からは受け入れがたいが、僕はもう赤シャツに対して不信任を心の中で申し渡してしまった。下宿のおばあさんもけちん坊の欲張り屋に違いないが、嘘は吐かない女だ、赤シャツのように裏表はない。僕は仕方がないから、こう答えた。
「あなたの言うことは本当かもしれませんが――とにかく増給はご免です。」
「それはますます可笑しい。今君がわざわざ来たのは、増俸を受けるには我慢ならない理由を見つけたからのように聞こえたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず、増俸を拒むのは少し解せないようですね。」
「解せないかもしれませんがね。とにかく断りますよ。」
「そんなに嫌なら強いてとまでは言いませんが、そう二三時間のうちに特別の理由もなく豹変しちゃ、将来君の信用にかかわる。」
「かかわっても構いません。」
「そんな事はないはずです。人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩譲って、下宿の主人が……」
「主人じゃない、おばあさんです。」
「どちらでもいいです。下宿のおばあさんが君に話したことを事実としたところで、君の昇給は古賀君の所得を削って得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行く。その代わりが来る。その代わりは古賀君よりも多少低給で来てくれる。その余剰を君に回すのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡で、今よりも昇進する。新任者は最初からの約束で安く来る。それで君が上がれば、これほど都合のいいことはないと思いますがね。嫌なら嫌でもいいが、もう一度よく考えてみませんか。」
僕の頭はあまり賢くないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙な弁舌を振るえば、「おや、そうかな。それじゃ、僕が間違っていた」と恐縮して引き下がるのだけれども、今夜はそうはいかない。
ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。途中で親切な女みたいな男だと思い返したこともあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果、今じゃよっぽど嫌になっている。
だから先がどれほど論理的に弁論を逞しくしようとも、堂々たる教頭流に僕を追い込もうとも、そんなことは構わない。議論が上手な人が必ずしも善人とは限らない。追い込まれる方が悪人とも限らない。
表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派でも、腹の中まで惚れさせるわけにはいかない。金や権力や理屈で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査でも大学教授でも、一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法で僕の心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。
「あなたの言うことはもっともですが、僕は昇給が嫌になったんですから、まあ断ります。考えたって同じことです。さようなら」と言い残して門を出た。頭の上には天の川が一筋かかっている。
𝑅𝑒𝓁𝒶𝓍 𝒮𝓉𝑜𝓇𝒾𝑒𝓈𝒯𝒱
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