老人と海:第2話

 老人と海:第2話

THE OLD MAN AND THE SEA

アーネスト・ヘミングウェイ Ernest Hemingway

現代語訳:Relax Stories TV




第2話


マグロたちは――漁師はこの種の魚を全てマグロと呼び、


売ったり餌と交換したりする時だけそれぞれの名前を用いて区別していた、


再び潜ってしまった。太陽はもう熱く、老人はうなじでそれを感じた。


漕ぎながら、背中に汗が流れるのが分かった。


 漕がずに流すという手もある、と彼は思った。たとえ眠っても、


ロープの先を輪にして足の指にかけておけば、目は覚める。


しかし、今日は八五日目だ。釣らねばならない。


 その時、ロープを見守る彼の目に、


突き出た生木なまきの枝の一本が勢い良くたわむのが見えた。


「よし」彼は言った。「よし」そして、船を揺らすことなくオールをおさめた。


右手を伸ばして、ロープを親指と人差し指の間に挟み、そっと押さえる。


引きも重みも感じられない。彼はロープをそのまま軽く握っていた。


すると、また引きが来た。今度は試すような引きで、強さも重みもない。


彼は状況を正確に理解した。一〇〇尋の深さで、カジキが餌を食べている


。小さなマグロの頭から突き出た手製の鉤の、


軸と先端を覆っているイワシをかじったのだ。


 老人はロープを軽く押さえたまま、それを左手で枝からそっと外した。


これで、魚に全く抵抗を感じさせずに、指の間からロープを送り出すことができる。


 この時季にこれだけ遠い沖にいるなら、大物に違いない。


食え、もっと食え。頼む、食いついてくれ。最高に新鮮な餌だぞ。


お前は六〇〇フィートもの深さの、暗くて冷たい水の中にいるんだろう。


暗闇の中をひと回りして、戻ってきて食いつくんだ。


 かすかに、柔らかい引きを感じた。続いて、少し強い引き。


イワシの頭が鉤からすんなり取れなかったのだろう。そして、引きは無くなった。


「来い」老人は声に出して言った。「またひと回りして、匂いを嗅いでみろ。


素晴らしいイワシだろう。たっぷり食ったら、次はマグロだ。


硬くて冷たくて、最高の味だ。さあ、遠慮するな。食うんだ」


 彼は、親指と人差し指の間にロープを挟んで待ちながら、


全てのロープに同時に気を配った。


魚が水深を変えて泳いでいるかもしれないからだ。


すると再び、先ほどと同じ柔らかい引きが来た。


「食いつくぞ」老人は言った。「どうか、食いついてくれ」


 しかし食いつかなかった。魚は逃げ、手ごたえは無くなった。


「逃げるはずはない」彼は言った。「絶対にない。


向きを変えて戻ってくる。もしかしたら、前に引っ掛けられた経験があって、


それを思い出しているのかもしれないな」


やがて優しげな引きを感じ、老人は喜んだ。


「ひと回りしていただけだ」彼は言った。「食いつくぞ」


 弱い引きの感覚を喜んでいた老人は、ほどなくして、


強く、信じがたいほどの重みを感じた。魚の重みだ。


彼はするするとロープを送り出す。


巻いてあった控えのロープ二本のうち、一本分は既に出て行った。


ロープは老人の指の間を軽く滑り、


親指にも人差し指にもほとんど力はかからなかったが


、彼はまだ大きな重みを感じていた。


「なんて魚だ」老人は言った。「餌を横向きにくわえて、そのまま逃げようとしてる」


 またひと回りして、きっと飲み込むだろう。彼はそう思ったが、


口には出さなかった。いい話を口に出すと、えてして幻になってしまうものだ。


相手が巨大な魚であることは分かっている。マグロを横からくわえて、


暗闇の中を逃げて行こうとする様子が目に浮かぶ。


 その瞬間、魚の動きが止まった。だが重みは依然として残っていた。


ややあって、その重みが増し、老人はさらにロープを送り出した。


親指と人差し指にちょっと力を入れると、さらに重みが加わり、


ロープはまっすぐ海の中に潜っていく。


「食いついたな」老人は言った。「しっかり食わせてやるとしよう」


 指からロープを滑らせながら、彼は左手を伸ばした。控えのロープ二巻ふたまきを


、別の控えの二巻ふたまきにしっかりと結ぶ。準備は整った。


これで、今持っているロープに加え、四〇尋の控えが三巻みまきも用意できたのだ。


「もうちょっと食うんだ」老人は言った。「しっかり食らいつけ」


 そうだ、鉤の尖端がお前の心臓に突き刺さって、お前を殺してしまうくらいにな。


気楽に上がって来いよ。そうしたら、銛もりを打ち込んでやるからな。


さあ、いいぞ。準備はどうだ。もう十分食べただろう?


「そら!」彼は大声を出して、ロープを両手で思い切り引き、


一ヤードほど手繰り寄せる。そして、腕に全力を込めながら体重を乗せ、


両腕を交互に振るようにしてぐいぐいと引っぱる。


 何も起こらなかった。魚はただゆっくりと遠ざかっていく。


老人には、一インチたりとも引き上げることはできなかった。


老人はロープを背中に回して支えた。大物用の丈夫なロープがぴんと張り、


水の粒が飛び散る。やがて水中のロープから、じりじりと鈍い音がしてきた。


彼はロープを握って船梁ふなばりに寄りかかり、体を反らせて引きに抵抗した。


船はゆっくりと、北西の方角へ動き始めた。


 魚は弛たゆみなく泳ぐ。穏やかな海を、船は魚とともにゆっくり移動していく。


他の餌はまだ水の中だが、どうしようもなかった。


「あの子がいてくれたらなあ」老人は声に出して言った。


「魚に引っ張られて、これじゃ俺が曳航えいこう用の繋つなぎ柱ばしらだ。


ロープを固定しようと思えばできるが、そうしたら奴に切られちまうだろう。


なんとしても、逃がすわけにはいかん。引っ張りたいならもっと伸ばしてやればいい。


ありがたいことに、奴は移動してはいるが深く潜ろうとはしていない」



彼はシイラの残骸を船の外に投げ、水に渦ができるかどうかを観察した。しかし、ゆっくりと沈んでいく光が見えただけだった。彼は体の向きを変え、二匹のトビウオをシイラの切り身二枚で挟み込んだ。そしてナイフを鞘に戻し、ゆっくりと舳先に戻り始める。彼の背中はロープの重みで曲がっていた。右手には魚を握っていた。


舳先に戻ると、彼はシイラの切り身とトビウオとを板の上に並べた。それから肩にかけたロープの位置をずらし、船べりに乗せた左手で再びロープを押さえた。そして、船から身を乗り出して海水でトビウオを洗いながら、水の抵抗の強さによって速度を測った。シイラの皮をいじったせいで、彼の手は燐光を放っている。彼はその手に当たる水の流れに集中した。流れの勢いは弱まっている。船の外側に手をこすりつけると、光の欠片が水面に舞い落ちて、ゆっくりと船尾の方へ流れていった。


「奴は疲れているのか、それとも休んでいるのか」老人は言った。「俺もシイラを食って、ひと休みして少し眠ろう。」


星空の下、深まる夜の冷え込みの中で、彼はシイラの切り身を半分食べた。それから、腸抜きをして頭を切り落としたトビウオを、一匹だけ食べた。「料理して食う分には、シイラは最高の魚だ」彼は言った。「だが生では最低だ。次からは必ず、塩かライムを用意することにしよう。」


もう少し知恵があれば、昼の間に舳先に水をまいて乾かして、塩が取れたところだ。彼は思った。ただ、シイラが釣れたのはほとんど日が暮れてしまった頃だった。それにしたって準備不足だ。しかし、しっかり噛んで食べたし、吐き気があるわけでもない。


東の空が曇り始めた。知っている星が、一つ、また一つと消えていく。雲でできた大峡谷に船が突っ込んでいくかのようだった。風はやんでいた。「三日か四日したら、天気が悪くなりそうだ」彼は言った。「だが今日明日の問題じゃない。魚が落ち着いてるうちに、爺さんは寝る支度だ。」


彼はロープを右手でしっかり握り、右手の上に太腿を乗せて押さえた。全体重を舳先の板にかける。それから、肩にまわしたロープを少し下にずらし、左手でそれを握った。こうしておけば俺の右手が押さえていられる。彼はそう考えた。もし眠っていて右手が緩んでも、ロープが動けば左手が気づくはずだ。右手には苦労をかける。だがこいつは酷使されることに慣れてるからな。二十分でも三十分でも眠れればありがたい。彼は上体を前に倒し、体重を右手に乗せて、自分の体でロープを押さえた。そして彼は眠った。


夢に出てきたのはライオンではなく、イルカの大群だった。交尾期のイルカの群れが、八マイルか十マイルほども広がっていた。イルカたちは高く跳ね、水面にできた穴にまた潜っていった。


次の夢では、彼は村にいて、自分のベッドに寝ていた。強い北風が吹いてとても寒く、枕代わりにしている右腕がしびれていた。


その後の夢には、黄色く広い砂浜が出てきた。夜明けの暗い浜に、一匹目のライオンが下りてくる。他のライオンたちもそれに続く。彼は舳先に顎を乗せて見ていた。船は晩の陸風の中で停泊している。彼は幸せな気分で、ライオンがもっと現れるのではないかと待っていた。


月が出てからしばらく経ったが、老人は眠り続けていた。魚は変わらず引き続け、船は雲のトンネルの中に入っていった。


右の拳が引っ張られて顔にぶち当たり、彼は目覚めた。ロープは右手を焼く勢いで走り出る。左手は何も感じていない。右手に全力を込めてロープを止めようとしたが、勢いは抑えられない。やっと左手がロープをつかむ。体重を後ろにかけると、今度はロープが背中と左手を焼く。引っ張る力の全てがかかり、左手をひどく切ってしまった。振り返って見ると、巻いてあるロープがするすると流れ出ている。その時、魚が水面を爆発させるように飛び上がり、また派手に落ちた。魚は何度もジャンプを繰り返す。ロープが走り出ていく。老人は、切れる寸前までロープを押さえ、いったん緩めてはまた切れる寸前まで押さえる。それでも船は勢いよく引きずられる。彼は舳先に引き倒され、顔はシイラの切り身に押し付けられていた。しかし、動くこともできなかった。


お互い、この時を待っていたんだ。彼は心の中で決意した。やってやろうじゃないか。



彼には魚が跳ねる姿は見えない。海面が破裂する音と、派手に飛び込む音が聞こえるだけだ。ロープのスピードが両手をひどく傷つけていたが、彼はそれを普段から覚悟していた。彼はロープの力を皮膚の硬い部分で受け、それが手のひらに滑り込んだり指を切ったりしないよう努めた。


あの子がここにいたら、ロープを濡らしておいてくれるだろう。彼はふと思った。そうだ、あの子がここにいたら。あの子がいてくれたら。


ロープはみるみる出て行く。が、その勢いは弱まってきた。彼は、魚に一インチずつロープを引き出させてやった。彼は板から頭を上げ、頬で押し潰していたシイラの切り身から顔を離した。膝をつき、そしてゆっくりと立ち上がる。ロープは持って行かれるが、そのスピードはだんだん落ちている。彼は、巻いたロープが控えているところまで後ずさりし、目で見る代わりに足で触って確認した。ロープはまだたっぷりある。新たに伸びたロープが水の中で得る抵抗は、全て魚の重荷になるだろう。


そうだ、と彼は思った。奴はもう十回以上ジャンプした。背中の浮袋を空気でいっぱいにして跳ねたんだ。これで、引き上げられないほど深く沈んで死んでしまうことはなくなった。じきにぐるぐる回り始めるだろう。そうしたら俺が仕掛ける時だ。しかしなぜ奴は突然始めやがったんだ。空腹がもう限界なのか、それとも夜の闇の中で何かに怯えたのか。突然恐ろしくなったのかもしれない。だが奴は、冷静で強い魚だ。恐怖心はなさそうで、自信に満ちているようだった。奇妙だな。


「爺さんだって、怖いもの知らずの自信を持てばいいんだ」と彼は言った。「魚の動きは捉えているが、引っぱれない。しかし必ず、じきに回り出すはずだ。」


老人は左手と肩を使って魚の動きを抑えつつ、しゃがんで、右手で水をすくい上げ、顔についたシイラの潰れた魚肉を洗い落とした。万一、シイラのせいで気分が悪くなって吐きでもしたら、体力を奪われてしまうからだ。顔がきれいになると、彼は船べりから右手を出して海で洗った。そして、夜明け前の曙光を眺めながら、そのまま手を塩水に浸しておいた。魚はほぼ真東を向いているな、と彼は心の中で呟いた。くたびれて、潮の流れに沿って泳いでいる証拠だ。じきに周回し始めるだろう。そこからが、私たちの本当の仕事だ。


もう十分だろうと判断すると、彼は右手を水から出して、確かめた。


「悪くないな」と彼は言った。「それに、痛みなど男にとっては何でもない。」


生傷を刺激しないよう慎重にロープをつかみ、体重を移動して、船の反対側から今度は左手を海に入れた。


「お前も、役立たずのわりにはそう悪くない」と彼は左手に向かって言った。「だが、一時はいないも同然だったな。」


なぜ俺は両方の手が利くように生まれてこなかったのか、と彼は思った。片方をちゃんと鍛えてこなかったのは失敗だった。左手の訓練をするチャンスはいくらでもあったはずだ。しかし、夜の作業は悪くなかったし、昨日はただ一度引きつりを起こしただけだ。もしまた引きつるようなら、ロープの勢いで切り落としてやるところだが。


そんな考えに至った時、彼は、頭の働きが鈍ってきていることに気付いた。シイラをもう少し食べてやらなければいけない。いや、無理だ。彼は自分に言った。吐き気で力が出なくなる。だったら頭がよどんでいたほうがましだ。顔に押し付けられていたあの肉を食ったら、吐き気を抑えられない。非常用として、腐るまで取っておこう。いや、今さら栄養を取って力をつけようというのは遅すぎるか。間抜けめ。彼は自分に言った。トビウオを食えばいいんだ。


トビウオはちゃんと洗ってあった。彼は左手でつまんで口に入れ、しっかりと骨を噛んで、尻尾まで丸ごと食べた。


こんなに栄養のある魚はそうはいない。彼は思った。少なくとも、俺に必要な力を持った魚だ。さあ、できることはやったぞ。彼は思った。周回を始めるがいい。そうしたら闘いだ。


老人が海に出てから三度目の日の出を迎えた頃、魚の軌跡が円を描き始めた。


ロープの傾きからは、周回しているとは思えなかった。回るのはまだ早すぎる。ロープの引きがわずかに緩むのを感じ、彼は右手で静かに引き始めた。ロープはやはり強く張っていたが、切れる寸前まで張り詰めたと思うと、徐々に手繰れるようになった。彼は両手を左右に振り、体と脚も使って、できる限り引こうとした。老いた脚と肩が、彼の引く動作の中心となっていた。


「実に大きな円だな」と老人は言った。「だが確かに回っている。」


ロープは少しも引けなくなった。そのまま握っていると、日差しの中でロープから水滴が跳ねるのが見えた。今度は、ロープが徐々に外へ引かれ始めた。老人は膝をつき、暗い水の中へとロープが引き込まれていくのを惜しんだ。


「円の一番遠いところに差し掛かったようだ」と老人は言った。できる限り引いていよう、と彼は思った。引いていれば、円はだんだん小さくなる。一時間後には奴の姿が見えるだろう。そして思い知らせてやる。俺が奴を殺すんだ。


だが、魚はゆっくりと円を描き続けた。二時間後には、老人は汗でびしょ濡れになり、すっかり疲れ切っていた。しかし円はずいぶん小さくなっていたし、ロープの傾きからすると魚が少しずつ浮上してきているのも確かだった。


一時間前から、老人の眼前には黒い斑点が浮かんでいた。汗の塩分が目に入り、まぶたや額の傷にも沁みる。彼は視界の斑点など恐れてはいなかった。ロープを引く時の緊張にはつきものだからだ。しかし、眩暈を覚えふらついたことが既に二度あった。こちらは気がかりだ。


「あの魚を前に、弱気になって死ぬわけにはいかない」と彼は言った。「ここまで立派に引っ張ったんだ、神様の助けがあってもいいじゃないか。『主の祈り』を百回、『アヴェ・マリア』を百回でも唱えよう。だが今すぐは無理だ。」


唱えたということにしよう、と彼は考えた。後でちゃんとやればいい。


その時、両手でつかんでいたロープに、突然ぐっと強い引きが来た。激しく重く強烈な引きだ。


奴のあの槍が、針金の鉤素はりすを叩いているんだ、彼は考えた。当然だ、そうせざるをえまい。だが、その勢いで跳ねられるのは困る。まだ回り続けてほしいところだ。空気を求めて跳ねてしまうんだろうが、跳ねるたびに鉤が引っかかった口の傷が開いてしまう。そのうち鉤を外されてしまうかもしれない。


「魚よ、跳ねるな」と彼は言った。「跳ねるなよ。」


魚は何度も鉤素はりすを叩いた。魚が頭を振るたびに、老人は少しずつロープを送り出してやった。


奴の痛みをこれ以上にしてはいけない。彼は思った。俺の痛みはどうでもいい。俺は痛みに耐えられるが、奴は我慢できず暴れ出すかもしれないんだ。


しばらくすると、魚は鉤素はりすを叩くのをやめ、再びゆっくりと周回を始めた。老人は少しずつロープを手繰った。が、また眩暈に襲われた。彼は左手で海水をすくい、頭からかける。さらにもう一度かけてから、首の後ろをさすった。


「引きつりはない」と彼は言った。「奴はもう上がってくる。俺はやれるぞ。やるしかない。言うまでもないだろうが。」


彼は舳先に膝をつき、いったん、先ほどと同様に背中にロープを回した。奴が円を描いて遠ざかっていくうちは、俺は休んでおこう。そして近づいてきた時には、立ち上がっていよいよ仕事だ。彼はそう決めた。


魚には勝手に周回させておき、ロープを引くこともなしに、舳先で休んでいたい。それは非常に魅力的な誘惑であった。しかし、魚が大きく回りながら船に近づいていることをロープが示すと、老人は立ち上がった。体を軸にして、機織りのようにロープを引き始める。彼はロープを手繰れるだけ手繰った。


今までにこれほど疲れたことはなかった。彼はそう思った。貿易風が吹いてきたぞ。奴を連れて帰るには都合がいい。ぜひとも必要な風だ。


「奴がまた遠ざかり始めたら、休むんだ」彼は言った。「気分はずいぶん良くなった。あと二周か三周したら、こちらの勝ちだ。」


老人の麦わら帽子は、頭の後ろの方へずり落ちていた。魚がまた方向を変え、ロープの引きが変わると、彼は舳先に座り込んでしまった。


魚よ、せいぜい頑張りな、彼は思った。また近づいてきた時に仕留めてやる。


ずいぶん波が立ってきた。しかし、この晴天の風は、陸に帰るために無くてはならない風だった。


「針路を南西に取ればいいんだ」彼は言った。「海では迷子になんかならないからな。長い島のいずれかに帰れればいい。」


三周目に入った時、彼は初めて魚の姿を目にした。


暗い影として姿を現した魚は、信じられないほどの長い時間をかけて、船の下を通り過ぎた。


「まさか」彼は言った。「そんなに大きいはずはない。」


しかし、魚は大きかった。三周目の円を描き終わった時、魚は、船から三十ヤードしか離れていないあたりで海面近くまで浮かんできた。老人には、その尾ひれが水から出ているのが見えた。それは後ろに傾斜した形で、大鎌の刃よりも高くそびえ立って、暗い青色の海の上で薄紫に輝いていた。魚が水面すれすれを泳いだので、老人はその巨大な胴体と、紫色の縞模様とを確認することができた。背びれは畳まれ、大きな胸びれは左右に広げられていた。


今回の周回で、老人は初めて魚の目を見た。そばには二匹の灰色のコバンザメがまとわりついている。時には吸いつく。時には離れる。時には、大魚の影に隠れて悠々と泳ぐ。コバンザメはどちらも三フィートくらいの大きさで、速く泳ぐ時にはウナギのように全身をしならせていた。


老人は汗をかいていた。太陽の暑さだけが理由ではなかった。落ち着いたゆるやかなターンを経て魚が戻ってくるたびに、彼はロープを手繰っていった。あと二周もすれば、銛を打ち込むチャンスが来るはずだ。


引きつけて、引きつけて、引きつけて、捉える。彼は考えた。頭を狙ってはいけない。心臓をやるんだ。


「落ち着け、爺さん。しっかりしろ」と彼は言った。


次の周回で、魚は水面から背を出した。だが、船からは少し遠い。その次の周回でもまだ遠かったが、魚の位置はより高くなっていた。もっとロープを手繰れば船べりに寄せられる、と老人は考えた。


銛の準備はずいぶん前にしてあった。銛に付いた軽いロープは丸籠に収められ、ロープの終端は舳先の繋ぎ柱にしっかりと結んである。


円を描きながら、魚が近づいてきた。美しく落ち着いた様子で、大きな尾びれだけが動いている。老人は魚をそばへ寄せようと全力で引いた。一瞬、魚が傾いた。しかしすぐ持ち直し、また周回を始める。


「奴を動かした」老人は言った。「俺が動かしたのだ。」


また眩暈がした。しかし彼は全力で引き続け、大魚に食らいついていた。奴を動かしたぞ、と彼は思った。きっと今回で奴に勝てる。手よ、引け。足よ、踏んばれ。彼は思った。頭よ、しっかりしろ。しっかりしてくれよ。気を失ったことなどないだろう。ここで奴を引っ張り寄せるんだ。


だが、まだ魚がそばに来る前に全力を込めて引っ張り始めると、魚は少し揺らいだ後、また体を立て直して泳ぎ、遠ざかって行った。


「魚よ」老人は言った。「魚よ、どんなにあがいてもお前には死ぬ運命しかない。お前の方は、俺を殺すしかないというのか?」


それじゃどうにもならないな。彼は思った。喋れないほど口の中が乾いていたが、水に手を伸ばすこともできなかった。今度こそ必ず、奴を船の脇まで引き寄せる。このうえ何度も周回されたら耐えられない。いや、そんなことはないぞ。彼は自分に言った。お前は永遠にでも戦える。


次の一周で、勝負はほとんど決まりかけた。しかし、魚はまた元通りに立ち直り、ゆっくり遠ざかって行った。


魚よ、お前は俺を殺す気だろう。老人は考えた。確かにお前にはその資格がある。俺は今までに、お前ほど立派で、美しくて、落ち着いていて高貴な奴を見たことがない。兄弟よ。来い、俺を殺すがいい。どちらがどちらを殺したって、構わないんだ。


頭が鈍ってきたな。彼は思った。頭は明晰に保っておかなければ。明晰な頭で、人間らしく苦しむべきだ。あるいは魚らしく。彼はそう考えた。


「頭よ、しっかりしろ」と自分にもほとんど聞こえない声で言った。「しっかりしろ。」


さらに二度、周回のたびに同じことが起きた。


何だこれは。老人は思った。彼は毎回気を失いかけた。分からない。だが、もう一度やるぞ。


彼はもう一度試みたが、魚を引っくり返したかと思うと、気を失いそうになるのだった。魚は立ち直り、水面から出した大きな尾を揺らして、またゆっくりと遠ざかっていく。



もう一度だ。老人は誓った。両手はぼろぼろで、目には途切れ途切れの光景しか見えなかった。


彼はもう一度挑んだが、結果は同じだった。それならば、と彼は思ったが、動く前から目まいがした。ならば、もう一度やるぞ。


残された全ての力と、とうに失った誇りとを掻き集め、彼は魚を苦しめるようにそれをぶつけた。魚は船の方に引き寄せられ、彼のそばをゆっくり泳いだ。船べりの板にくちばしがふれそうなほど近づいている。魚は船の脇を通り過ぎようとした。長く、分厚く、大きく、銀色に輝き、紫色の縞を見せ、水の中で果てしなく広がりながら。


老人はロープを手放し、足で踏みつけた。そして銛をできる限り高く振り上げ、全力を、いや全力以上の力を込めて、魚の体めがけて突き下ろす。老人の胸の高さまで持ち上がっていた巨大な胸びれの後ろに、銛が打ち込まれた。鉄が魚の肉に潜るのを感じると、彼は銛に寄りかかり、全体重をかけてさらに深く刺し入れる。


魚は死を宿しながら、その生命を鮮やかに輝かせていた。水面から高く跳ね上がり、その大きな体を、力と美しさを、残さず見せつける。船に乗る老人よりも高く、宙に浮かんでいるように見えた。と、魚は激しい音を立てて水に落ち、老人と船全体にしぶきを浴びせた。


老人は眩暈を覚えた。胸がむかむかするし、目はよく見えない。だが彼は、銛のロープの絡みを取り、擦りむけた手でそれを少しずつ送り出した。視界がはっきりしてくると、魚が銀色の腹を出して仰向けになっているのが見えた。銛の柄えは魚の体に斜めに突き刺さり、その心臓から流れる血は海を赤く染めていた。一マイル以上の深さの青い海を背景として、魚群のような暗い色の塊になっていた血は、やがて雲のように広がっていった。魚は静かに銀色に輝いて、波に揺られていた。



老人は、ぼやける視界に映るものをしっかりと見つめ直した。そして銛のロープを舳先の繋ぎ柱に二回巻いてから、下を向いて頭を両手で押さえた。


「しっかりした頭が必要だ」彼は舳先の板に寄りかかりながら言った。「俺は疲れた年寄りだ。だが、兄弟分の魚を殺してやった。残るは雑用だ」


さあ、ロープで輪を作って、奴を船べりに括りつけるんだ。彼は思った。俺と魚の二人だけだが、奴を乗せたら船に水が入ってしまう。水をかき出したところで、この船では奴を運ぶのは無理だろう。何しろロープの準備だ。そして奴を船に寄せて、しっかり括りつけ、マストを立てて帆を張る。それで家に帰ろう。


魚を船の脇につけるため、彼はロープを引き始めた。鰓えらから口にロープを通して、頭を舳先に縛り付けるのだ。奴を見ていたいからな、と彼は思った。奴を触って、その感触を確かめたい。奴は俺の財産だ。だが、だから触りたいというわけじゃない。俺は奴の心臓まで感じたんだ。彼は思った。刺さった銛を押し込んだ時にな。さあ、奴をもっと引き寄せて、尾びれと胴体に輪っかをかけて、船に括りつけてやろう。


「爺さん、仕事だ」彼は言った。そして少しだけ水を飲んだ。「闘いの後には、雑用仕事が山ほど待ってる」


彼は空を見上げ、それから魚を眺めた。そして太陽をしっかり観察した。正午を過ぎてそれほど経っていないようだ、と彼は思った。貿易風も吹いている。ロープはもう全て駄目になってしまった。帰ったら、あの子と一緒に継ぎ合わせよう。



「おい、こっちへ来い」と彼は言った。だが魚は来ない。ただ波間で仰向けに横たわっているだけだった。老人は魚のほうへ船を漕いだ。


魚の真横に船を並べ、舳先をその頭に寄せてみたが、彼はその大きさをまだ信じられなかった。彼は銛に繋がったロープを舳先の棒から外し、それを魚の鰓から顎へと通し、剣のようなくちばしに一度巻きつけた。それから反対側の鰓に通してさらに一度くちばしに巻き、ロープの端と端を結び合わせて舳先の棒に繋いだ。彼はロープを切り、尻尾の方にも輪をかけるために船尾に移動した。元々は紫色と銀色だった魚の体は、いまや銀一色に変わっていた。縞模様は尾びれと同じ薄紫色だった。その縞は、指を広げた人間の手よりも幅広い。その眼は、潜望鏡の反射鏡のように、あるいは行列祈祷式の聖者の眼のように、何が映っているのか分からないものだった。


「奴を殺すには他の方法は無かった」と老人は言った。水を飲んでから少し調子が良くなっていた。気を失う心配はもう無いし、頭もはっきりしている。丸のままで千五百ポンドはあるな、と彼は思った。いや、もっとかもしれない。さばいて三分の二の重さになるとして、一ポンドあたり三十セントならいくらになるだろう。


「鉛筆が要るな」と彼は言った。「まだ頭がしっかりしてない。だが今日の俺を見たら、大ディマジオだって褒めるだろう。俺には骨棘(こつきょく)は無いが、手や背中はひどい傷だ。」骨棘とはどんなものだろうな、と彼は考えた。もしかすると、知らない間にできてるのかもしれない。


魚のロープは船首にも船尾にも腰掛梁こしかけばりにも結ばれた。魚はあまりにも大きく、この船よりも大きな船が横に括りつけられているかのようだった。彼は短く切ったロープで魚の下顎とくちばしを縛り付けた。口を閉じさせておいたほうが、船が滑らかに進むからだ。それから彼はマストを立てる。斜桁ガフと下桁ブームの間に継ぎはぎの帆が張られ、船は動き始めた。彼は船尾で半ば寝そべったまま、南西へ向かった。


コンパスなど必要なかった。貿易風の吹き方と帆の張りを見れば、どちらが南西かは分かる。短いロープに疑似餌スプーンをつけて垂らしておこう。食べ物も水分補給も必要だ。しかし、疑似餌は見つからず、イワシは腐っていた。そこで彼は、流れていくホンダワラの黄色い塊を手鉤ギャフで引っ掛けた。揺すってみると、中にいた小エビたちが船底に落ちる。十匹以上いるようだ。浜跳虫ハマトビムシのように飛び跳ねている。老人は親指と人差し指で頭をつまみ取り、殻や尻尾まで噛み砕いて食べた。とても小さいが、栄養豊富で味も良いことを老人は知っていた。


瓶の中の水はあと二口ほど残っていた。老人はエビを食べてしまった後で、その水を一口の半分だけ飲んだ。重荷のわりに、船はよく進む。彼は舵を脇に挟み、操舵を行っていた。魚はすぐそこに見える。自分の手を見て、船尾に寄りかかる背中の感触を意識すれば、これが夢ではなく本当に起きた事だと分かった。闘いの終盤、あまりにも苦しかったその時、彼はこれは夢かもしれないと思った。そして魚が水から跳ね上がり、落下する前に空中で静止した時には、何かとてつもなく異常なことが起きているとしか思えず、現実と信じることができなかった。その時は目がよく見えなかったのだ。今はもう、何ともないが。



今は分かっている。魚はそこにいるし、両手も背中も夢ではない。手の傷は、すぐに治るだろう。彼はそう思った。手から出る血はもう出し切ったから、あとは塩水が治してくれる。メキシコ湾の暗い色の水は、何より効く薬だ。とにかく俺がすべきなのは、頭をはっきりさせておくことだな。両手は仕事を終えたし、船の進みは快調だ。奴は口を閉じ、尾をまっすぐ上下させて、俺たちは兄弟のように進んでいる。その時、頭が少しぼやけ始め、彼は考えた。奴が俺を運んでいるのか、それとも俺が奴を運んでいるのか。後ろにいる奴を俺が引っ張っている状況なら、疑う余地は無い。魚が船に載っていて、その威厳も消え去っているなら、やはり疑う余地はないだろう。老人と魚は、しかし横並びに結ばれて一緒に進んでいた。彼は思った。奴がそうしたいのなら、俺を運んでくれればいい。俺は策略で奴に勝っただけだし、奴は悪意を持ってはいなかった。


彼らの船は順調に進んだ。老人は手を塩水に浸し、頭をしっかり保つよう努めた。空高く積雲が浮かび、その上には巻雲がたくさん出ていたから、風は一晩中やまないと分かった。老人はたびたび魚のほうを見て、それが現実であることを確かめていた。それから一時間。最初のサメが、彼を襲った。


運が悪かったのではない。深さ一マイルの海で、暗い色の血の雲が生まれて散っていった時、サメは深い水の底から浮かび上がってきたのだ。すごい速さで一切の躊躇なしに浮上し、青い水面を割って太陽の下に現れる。そしてまた潜り、匂いを手がかりにして、船と魚が進んだ航路をなぞって泳ぎ始めたのだった。


サメは匂いを見失うこともあった。しかし、わずかな痕跡を手がかりにして再び嗅ぎつける。サメは猛烈な勢いで追跡した。非常に大きなアオザメで、その体は海で一番速く泳げるようにできていた。しかも、顎を除けば全てが美しい。背はカジキのように青く、腹は銀色に光り、皮は滑らかで美しかった。巨大な顎以外はメカジキと同様の体だ。その堅く閉じた顎を持つ鮫は、水面のすぐ下を高速で泳ぎ、高い背びれは揺らぐことなく水を切り裂いていた。閉じて重なった唇の内側には、八列の歯が内向きに反り返って並んでいる。それは一般的なサメのピラミッド型の歯とは違って、人間の指が鉤爪のように曲がっている時の形に近い。老人の指くらいの長さがあり、歯の両側はかみそりのように鋭かった。海の中の全ての魚を食い尽くすために造られた魚だ。速さの面でも強さの面でも武装の面でも、敵はいない。そのサメが今、新鮮な匂いを嗅ぎつけて速度を上げた。青い背びれが水を切る。


姿を見てすぐに、老人にはそれがサメだと分かった。恐れを知らず、望むものは全て手に入れるサメだ。彼はサメが近づくのを注視しながら、銛を用意し、ロープをしっかりと結びつけた。魚を縛るために切ってしまった分、ロープは短かった。


老人の頭は今、はっきりと明晰だった。決意がみなぎっていた。しかし、望みはほとんど無かった。あまりに良い事は長続きしないものだ、彼はそう思った。近づくサメに注意しながらも、彼は大魚を一瞥する。夢であれば良かった、と彼は思った。襲ってくるのは避けられないが、きっと、倒すことはできる。彼は思った。この畜生、牙野郎デントゥーソめ。



サメは素早く船尾に近づいた。サメが魚を襲う時、老人には、その開いた口と奇妙な目玉が見えた。サメの歯が音を立てながら、魚の尾に近い部位にめり込んだ。サメは水面から頭を出し、背中まであらわにした。大魚の皮と肉が裂かれる音が聞こえたのと同時に、老人はサメの頭に銛を打ち下ろした。サメの両目を結ぶ線と、鼻から背へまっすぐ伸びる線が交差する一点に、銛が突き刺さる。そんな線があるわけではない。あるのはただ、頑丈で尖った青い頭と、大きな目玉と、音を立てながら突き進んで全てを飲み込んでしまう顎だけだ。だがその奥には脳みそがあり、老人はまさにその部位を突いた。血まみれの手で、見事な銛さばきを見せながら、全力でその部位を突いたのだ。何の希望もなしに、決意と純粋な敵意をもって、彼は突いた。


サメの胴体が回転した。その目には生気が無いことが分かった。サメはもう一度回転し、ロープがその体に二周分絡んだ。サメは死んだ。が、サメ自身はそれを受け入れられないようだ。仰向けになり、尾をばたつかせ、顎を鳴らして、スピードボートのように水をかきわけて進んだ。尾に打たれた水が白く跳ね、その胴体が四分の三ほど水面から飛び出すと、ロープが張りつめ、震え、ぶつりと切れた。しばらくの間、サメは海面に静かに横たわっていた。老人はそれを見守っていた。やがてサメは、ひどくゆっくりと沈んでいった。


「四十ポンドはやられたな」と老人は声に出して言った。銛もロープもみんな取られた。彼は思った。俺の魚から血が流れてる。これはまた、別の奴が来るぞ。


彼はもう、魚を見ていたくなかった。魚の体は食いちぎられていた。魚が噛み付かれた時、彼は自分自身が噛み付かれたように感じていた。


だが俺は、俺の魚を襲ったサメを殺した。彼は思った。あんなに大きいデントゥーソは初めて見た。でかいのはずいぶん見てきたはずだが。


良い事は長続きしないものだ、と彼は思った。これが夢なら良かった。こいつを引っ掛けることもなく、ベッドで新聞紙の上に一人で寝ていれば良かったんだ。


「だが人間は、負けるように造られてはいない」と彼は言った。「打ち砕かれることはあっても、負けることはないんだ」しかし魚を殺してしまったのは、申し訳なかった。彼は思った。最悪の状況は近づいているが、銛すら無い。デントゥーソは残酷で、有能で、強くて、頭も良い。頭は俺の方が上だがな。彼は思った。いや、そうでもないかもしれん。きっと、俺の方が武器が多いだけだ。


「考えるな、爺さん」と彼は声に出して言った。「決めた通り進めばいい。来たら来たで、それはその時のことだ」


だが、考えるしかない。俺に残されたものはそれだけなのだから。それと野球だけだ。大ディマジオは、奴の頭にぶち込んだ俺のやり方を気に入るだろうか。まあ大したことじゃなかった、と彼は考えた。誰でもできることだ。だが俺の両手は、骨棘と同じくらいのひどい悪条件だったと思わないか。いや、分からない。俺がかかとを痛めたのなんて、赤エイに刺された時くらいだ。泳ぎながらエイを踏んでしまって、膝から下が痺れて痛くて耐えられなかった。


「爺さん、もっと愉快なことを考えろよ」と彼は言った。「こうしてる間にも、家うちに近づいてるんだ。四十ポンド失って、身軽になっただろう」


海流の中心部に入っていけばどんな事が起こるか、彼にはよく分かっていた。だが、できることは何も無い。


「いや、ある」彼は声に出して言った。「オールの握りの部分にナイフを括りつければいい。」


彼はその作業を、脇の下に舵棒を挟みながら行った。足では、帆の端に繋がれた帆綱(ほづな)を踏んで押さえている。


「さあ」彼は言った。「相変わらずただの年寄りだ。だが、丸腰じゃないぞ。」


風は強くなり、船は良く走った。魚の上半身だけを見ていると、希望が少しよみがえってきた。


希望を持たないのは愚かなことだ。彼は思った。罪でさえある。いや、罪のことなど考えるな。他に考えるべき問題はいくらでもある。彼はそう思った。それに、俺は罪について何も知らないんだ。


何も知らないし、罪の存在を信じているかどうかも分からない。きっと、魚を殺したのは罪なんだろう。自分が生きるためでも、みんなに食わせるためでも、罪だろうな。だがそれじゃあ全てが罪だ。罪のことなど考えるな。もうずいぶん手遅れだ。それを考えて金をもらっている奴らに、任せておけばいい。魚が魚として生まれるように、俺も漁師として生まれたんだ。聖サンペドロも漁師だった。大ディマジオの親父も同じだ。


しかし彼は、周囲のどんなことについても、考えるのが好きだった。読むものも無く、ラジオも無いので、ずっと考えていた。彼は罪についてさらに考えを巡らせた。あの魚を殺したのは、ただ生きるためでも、食料として売るためでもない。彼はそう考えた。誇りをかけて、彼は殺した。お前は、生きていた頃の奴を愛していた。死んでからも愛した。愛しているなら、殺すことも罪ではない。いや、より重い罪なのかもしれない。


「考えすぎだな、爺さん」彼は声に出して言った。


だがお前、デントゥーソを殺す時には喜んでいたな、彼は思った。あいつは俺と同じで、生きた魚を食って生きてる。腐肉をあさるような奴じゃないし、食欲の権化みたいなサメとも違う。あいつは美しく、気高く、恐れを知らない。


「俺は自分を守るために奴を殺した」老人は声に出して言った。「よくやったよ。」


ある意味では、あらゆるものが、自分以外のあらゆるものを殺している。彼はそう考えた。漁は俺を殺す。俺は漁に生かされる一方で、同時に殺される。俺は、あの子に生かされている。彼は思った。自分を欺くようなことは言うべきじゃないな。


彼は船べりから手を伸ばして、サメがかじったあたりから魚肉を少しちぎり取った。口に入れ、肉質と味の良さを噛みしめる。締まっていて汁気が多く、牛肉のような食感だが赤身ではない。筋も全く無い。市場で最高の値段がつくのは間違いない。しかし、水に拡がる匂いを止める方法は無かった。老人は、最悪の状況が近づきつつあると分かっていた。



風は吹き続けている。風向きは、東から少し北東の方に変わった。つまり、当分はやまないということだ。老人は前方を眺めた。しかし帆影(ほかげ)は見えず、船体も見えず、蒸気船の煙も見えなかった。ただ、トビウオが舳先から船の左右に跳ね上がり、ホンダワラの黄色い塊が漂っている。鳥は一羽も見当たらなかった。


二時間、船はそのまま進んだ。彼は船尾で体を休めつつ、時折カジキの肉を少し食べて、力を維持しようと努めていた。その時、二匹のサメのうち、一匹目が見えた。


「アイ!」彼は声に出してそう言った。この言葉は翻訳できない。きっと、両手を釘で貫かれ板に打ちつけられた時に、人が思わず発してしまうような声だ。


「ガラノーだ」彼は言った。最初のサメの後ろに、第二のサメの尾びれが見えた。茶色い三角形のひれと、払うような尾の動きから、シャベル鼻のサメだと分かった。二匹は匂いを嗅ぎつけて興奮していた。空腹のあまり頭が働かなくなって匂いを見失ったり、また見つけて大興奮したりしながら、確実に船へと近づいていた。


老人は帆綱を結び、舵棒を固定した。そして、ナイフを縛り付けたオールを手に取った。両手があまりにも痛むので、できるだけ静かに持ち上げる。オールを持つ両手をそっと開いたり閉じたりして、痛みをほぐそうとした。痛みに耐えられるように、ひるんでしまわないように、彼は両手を固く握りしめ、近づくサメをじっと見つめた。シャベルの刃のように平らで広い頭と、先端が白くなった大きな胸びれが見える。こいつらは忌まわしいサメだ。ひどい臭いを放ちながら、殺しも行い、腐肉をあさることもある。腹が減っていればオールにでも舵にでも噛み付いてくる。海面に浮かんで眠っている亀の足を噛みちぎっていく奴らだ。泳いでいる人間だって、たとえ魚の血やぬめりの匂いが体についていなくても、空腹時の奴らにとっては標的となる。


「アイ」老人は言った。「ガラノーめ。来い、ガラノー」


サメは来た。しかし、さっきのアオザメのようには来なかった。一匹が体をくねらせ、船の下に隠れる。老人は船が揺れるのを感じた。がたがたと魚が引っ張られている。別の一匹は、細長く黄色い眼で老人を注視していたが、半円形の口を開き、素早く魚を襲った。既に傷ついている部位に噛みつく。サメの茶色い頭と背中の、脳と脊髄が繋がる部分には、はっきりと線が浮き出ていた。老人はオールの先のナイフをその繋ぎ目に打ち込み、引き抜き、次に、猫のような黄色い眼に突き刺した。サメは魚を放して滑り落ちる。噛みちぎった肉を飲み込みながら、それは死んだ。


船はまだ揺れ続けていた。もう一匹が魚を襲っているのだ。老人は帆綱の固定をほどいて船の向きを変え、下にいたサメの姿を暴いた。それが見えた瞬間、彼は身を乗り出してサメを打った。しかし、肉を叩いただけだった。皮が硬く、ナイフはわずかしか入らない。この一撃で彼は、両手だけでなく肩も痛めた。サメは素早く頭を突き出してくる。その鼻が水面から現れ、魚に襲いかかった時、老人はサメの平らな頭の中心を正面から打った。刃を引き抜くと、再び正確に同じ場所に叩き込む。それでもサメは、顎で魚にぶら下がっている。老人はサメの左眼を刺した。サメはまだ放さない。


「まだか?」老人はそう言いながら、脊椎と脳の間に刃を突き立てた。今度は狙うのも簡単だ。軟骨が裂ける感触が分かった。老人はオールを返し、刃の先をサメの口に突っ込んでこじあけた。オールをひねり、サメが滑り落ちると、彼は言った。「じゃあな、ガラノー、海底まで一マイルだ。友達に会いに行くがいい。いや、もしかするとお袋だったか。」



老人はナイフの刃を拭いて、オールを下に置いた。そして帆綱を拾う。帆は膨らみ、船は進路に戻った。


「四分の一は取られたな。一番いい所をやられた。」彼は声に出して言った。「夢なら良かった。こいつを釣り上げたのも夢なら。なあ、悪かったな。釣らなきゃ何も悪いことは起きなかった。」そこで彼は黙った。もう魚を見たくなかった。血は抜け、波に洗われ、魚は鏡の裏側のように銀色に輝いて見えた。ただ縞模様はまだ残っていた。


「なあ、俺はこんな遠出をしない方が良かったんだろうな。」彼は言った。「お前にとっても俺にとっても。魚よ、悪かったな。」


さあ、彼は心の中でそう呟いた。ナイフを縛っているロープが切れていないか、確かめておこう。それから手も何とかしなければならない。まだまだ来るからな。


「ナイフを研ぐ石があれば良かったな。」オールの端に結ばれたロープを確かめながら、老人は言った。「石を持ってくれば良かった。」持ってくるべきものが色々あったんだ、と彼は思った。だが持ってこなかったな、爺さん。いや、今は、持っていない物のことを考えてる暇は無いぞ。ある物で何ができるかを考えろよ。


「忠告はありがたいが。」彼は声に出して言った。「もうたくさんだ。」


彼は舵棒を脇に挟み、両手を水にひたした。船は進んで行く。


「それにしても、今の奴にはずいぶん取られた。」彼は言った。「しかし船は軽くなったぞ。」食いちぎられた半身のことを考えたくはなかった。サメがガタガタとぶつかるたび、肉が剥ぎ取られていったのが彼には分かっていた。いまや魚は、海中に匂いで航跡を描き、全てのサメを引き寄せる広い道を作っているかのようだった。


𝑅𝑒𝓁𝒶𝓍 𝒮𝓉𝑜𝓇𝒾𝑒𝓈𝒯𝒱

売ればひと冬暮らせるほどの魚だった。彼はそう思った。いや、考えるな。今はただ休んで、残りを守れるように両手を治せ。両手から血の匂いがするが、水中に広がってる匂いと比べれば何でもない。それに、大して血が出ているわけじゃないんだ。とりたてて騒ぐような傷はどこにも無い。血が出た分、左手が引きつらなくなるかもしれない。


今の俺は何を考えられるだろう、と彼は思った。何も無い。考えることなど無しに、次の獲物を待つだけだ。全てが夢だったら良かった。彼はそう思った。いや、分からない。良い結末が待っているかもしれないんだ。


次に来たのは、シャベル鼻のサメ一匹だった。飼い葉桶に寄ってくる豚のようだ。ただ、人の頭が入るほど大きな口は、豚には無い。老人はサメにそのまま魚を襲わせ、それからサメの脳を目がけてオールの先のナイフを打ち込んだ。サメが体をねじり、後ろにのけぞると、ナイフの刃はパチンと折れた。


老人は座って舵を取った。水中にゆっくり沈んでいく大きなサメの方は見ようともしなかった。最初は実物大だったサメが、だんだん小さく、ちっぽけになっていく。いつも老人を魅了する光景だ。だが今の彼は、それに一瞥もくれなかった。


「まだ手鉤ギャフがある。」彼は言った。「だが役に立たないな。他にあるのは、オールが二本と、舵棒と、短い棍棒だ。」


打ちのめされたな、と彼は思った。棍棒でサメを叩き殺せるほど俺は若くない。しかしできる限りのことはしよう。オールと棍棒と舵棒はあるんだ。


𝑅𝑒𝓁𝒶𝓍 𝒮𝓉𝑜𝓇𝒾𝑒𝓈𝒯𝒱


18,541文字



コメント

このブログの人気の投稿

ラプンツェル

老人と海:最終話