老人と海:第1話
老人と海:第1話
THE OLD MAN AND THE SEA
アーネスト・ヘミングウェイ Ernest Hemingway
現代語訳:Relax Stories TV
はじめに
「老人と海」(The Old Man and the Sea)は、アーネスト・ヘミングウェイによる1952年の中編小説です。この物語の主人公は、キューバの老漁師サンチャゴです。
サンチャゴは84日間も魚が釣れない日々が続いていましたが、ついに巨大なカジキマグロを釣り上げます。しかし、港に戻る途中でサメに次々と襲われ、カジキの肉をほとんど食べられてしまいます。最終的に、サンチャゴは骨だけになったカジキを持ち帰り、疲れ果てて眠りにつきます。
この物語から得られる人生に役立つ教訓は以下の通りです:
不屈の精神
サンチャゴは何度も困難に直面しますが、決して諦めずに挑戦し続けます。この姿勢は、どんな困難にも立ち向かう勇気を教えてくれます。
自然との共存
サンチャゴは海を愛し、尊敬しています。自然との調和と共存の重要性を示しています。
孤独と自己信頼
サンチャゴは孤独な戦いを続けますが、自分自身を信じて行動します。自己信頼の大切さを教えてくれます。
努力と結果
努力が必ずしも報われるわけではないことを示していますが、それでも努力することの価値を強調しています。
このように、「老人と海」は人生の困難や挑戦に対する姿勢を考えさせられる深い教訓を含んでいる作品です。
彼は老いていた。小さな船でメキシコ湾流に漕ぎ出し、独りで漁をしていた。
一匹も釣れない日が、既に八四日も続いていた。
最初の四〇日は少年と一緒だった。しかし、獲物の無いままに四〇日が過ぎると、少年に両親が告げた。
「あの老人はもう完全に『サラオ』なんだよ」と。
サラオとは、すっかり運に見放されたということだ。
少年は両親の言いつけ通りに別のボートに乗り換え、一週間で三匹も立派な魚を釣り上げた。
老人が毎日空っぽの船で帰ってくるのを見るたびに、少年の心は痛んだ。
彼はいつも老人を迎えに行って、巻いたロープ、手鉤ギャフ、銛もり、帆を巻きつけたマストなどを運ぶ手伝いをするのだった。
粉袋で補修された帆は、巻き上げられて、永遠の敗北を示す旗印のように見えた。
老人は細くやつれ、首筋には深い皺が刻まれていた。頬には、熱帯の海に反射した日光によって、まるで皮膚癌のような褐色のしみができていた。
しみは顔の両側に首近くまで連なっている。両手には、大きな魚の食らいついたロープを制する時にできた、深い傷痕がいくつもあった。しかし傷痕は新しいものではない。
魚などいない砂漠、風に侵食された砂漠のように、古い傷痕だった。
彼に関しては何もかもが古かった。ただ、その両眼を除いては。
彼の眼は、海と同じ色に輝き、喜びと不屈の光をたたえていた。
「サンチャゴ」少年は、船を着けた岸の斜面をのぼりながら老人に呼びかけた。
「また一緒に行きたいな。お金も多少貯まったし」
老人は少年に漁を教えてきた。少年は彼を慕っていた。
「だめだ」と老人は言った。「お前の船はついてる。仲間を変えないほうがいい」
「でも僕らは前に、八七日も不漁だった後で、三週間毎日大物を釣ったことがあったじゃないか」
「あったな」老人は言った。
「分かってるさ。お前が船を変えたのは、俺の腕を疑ったからじゃない」
「親父だよ、船を変えさせたのは。僕は子供だから、従うしかないんだ」
「分かってる」老人は言った。「当然のことだ」
「親父には、信じるってことができないんだよ」
「そうだな」老人は言った。「でも俺たちにはできる。そうだろ?」
「うん」少年は言った。「テラスでビールをおごらせてよ。道具はその後で運ぼう」
「いいとも」老人は応じた。「漁師仲間として、頂こう」
二人はテラスの店内で腰をおろした。多くの漁師が老人をからかったが、彼は怒らなかった。
年配の漁師たちの中には、彼を見て悲しむ者もいた。
しかし彼らはそれを表には出さず、潮の流れとか、釣り場の水深とか、良い天気が続いているとか、今日は何を見たとか、そういうことを穏やかに話すのだった。
その日収穫のあった漁師たちはとっくに戻っていて、
カジキの処理も済ませていた。彼らは、二枚の板いっぱいにカジキの身を並べ、
二人で板の両端を持ってよろめきながら倉庫へと運んだ。
カジキをハバナの市場に運ぶ冷蔵トラックが来るのを、そこで待つのだ。
サメを獲った漁師たちは、入り江の反対側にあるサメ処理工場に獲物を運んだ。
サメは滑車で吊り上げられ、肝臓を取り除かれ、ひれを切り落とされ、
皮を剥がれ、肉は細く切られて塩漬けにされる。
風が東から吹く時には、この工場の臭いが港を越えて漂ってきた。
しかし今日はほんのわずかな臭いしか感じられない。風は北向きに変わり、
それもやんでしまったからだ。テラスは心地よく陽に照らされていた。
「サンチャゴ」少年は呼びかけた。
「ああ」老人は応えた。彼はグラスを持ったまま、ずっと昔のことを考えていた。
「明日使うイワシを獲って来ようか?」
「いや。野球でもして来るといい。俺はまだ漕げるし、投網はロヘリオがやるだろう」
「僕が行きたいんだよ。一緒に漁に行けないなら、何か役に立ちたいんだ」
「ビールをくれたじゃないか」老人は言った。「お前はもう一人前だ」
「初めて僕を船に乗せてくれたのは、何歳のときだったかな」
「五歳だったな。釣り上げた魚に殺されそうになったんだ。
ひどく活きのいい奴で、危うく船まで粉々になるところだった。覚えてるか?」
「覚えてるよ。尻尾でバタバタ跳ね回って、船梁ふなばりをぶち壊したんだ。
棍棒でぶん殴った時の音まで覚えてる。
僕はサンチャゴに舳先へさきのほうへ突き飛ばされて、濡れたロープのそばで、
船全体が震えるのを感じてたんだよ。
サンチャゴが丸太をぶち割るみたいに魚を棍棒で叩いて、すごい音がした。
そこらが甘ったるい血の臭いでいっぱいになったんだ。」
「本当に覚えてるのか? 俺がした話を覚えてるだけじゃないのか?」
「全部覚えてるよ。初めての時から全部」
老人は少年を見つめた。老人の顔は日に焼け、
その眼差しは信頼と愛情に満ちていた。
「お前がもし俺の子なら、連れて行って、
いちかばちか勝負するんだがな」彼は言った。
「でもお前は、お前の親父とお袋の子だ。しかもついてる船に乗ってる」
「イワシを獲って来てもいい? 餌にする魚も、四匹は用意できるよ」
「今日の残りがあるさ。塩をかけて箱にしまってある」
「新しいのを四匹持って来るよ」
「一匹だ」老人は言った。彼には希望と自信がある。それは今、
新しい風のように彼の中で強くなりつつあった。
「二匹だよ」少年は言った。
「二匹か」老人はうなずいた。「盗んだものじゃないだろうな?」
「盗むことだってできたけど」少年は言った。「買ったんだよ」
「悪いな」老人は言った。彼は単純だったから、
自分がいつからこれほど低姿勢な人間になったのかなどとは考えなかった。
自分が低姿勢になったと自覚してはいたけれど、
それが不名誉なことでも真の誇りを損なうものでもないということも分かっていた。
「この調子だと、明日はいい天気になりそうだ」彼は言った。
「どこまで行くの?」少年が尋ねた。
「ずっと遠くまでだ。風が変わったら戻る。明るくなる前に沖に出られるといいんだが」
「僕も親方に、沖まで出るように頼んでみるよ」少年は言った。
「そうすれば、サンチャゴがすごい大物を引っかけた時、みんなで手助けに行けるからね」
「あいつは遠出とおでしたがらないだろう」
「そうなんだよ」少年は言った。「でも、親方には見えないものを僕が見つけられるからね、
鳥が獲物を探してるところとか。それでシイラの後を追っかけさせて、遠出させてやるんだ」
「あいつの眼はそんなに悪いのか?」
「ほとんど見えてないよ」
「妙だな」老人は言った。「あいつは海亀獲りは一度もやらなかったんだ。
あれをやると眼に悪いんだが」
「でも、サンチャゴはモスキート海岸で何年も海亀獲りをやってたのに、
すごく眼がいいじゃないか」
「俺はおかしな年寄りだからな」
「超大物とも戦える?」
「大丈夫だ。やり方は色々とある」
「道具を片付けようか」少年は言った。「それから、投網を持ってイワシを獲りに行くよ」
二人は船から道具を取り出した。老人はマストを肩にかつぎ、
少年は木箱と手鉤ギャフと柄えつきの銛もりを運んだ。
木箱には、撚よりの強い茶色のロープが渦になって収まっていた。
餌にする魚を入れた箱は、棍棒と一緒に船尾のほうに残しておいた。
棍棒は、大きな魚を船ふなべりまで引き寄せた時、
魚が暴れるのを鎮めるために使うものだ。
老人から何か盗もうとする者などいないだろうけれど、
帆や重いロープには夜露はよくないから、持ち帰ったほうが良い。
老人も、この辺の人間が自分の物を盗むことなどないと信じてはいたが、
手鉤ギャフや銛を船に残しておくと人の出来心を不必要に誘いかねないとも思っていた。
二人は、老人の棲家である粗末な小屋まで一緒に歩き、開け放してある入り口から中へ入った。
老人は、帆を巻きつけたマストを壁に立てかけ、少年はそのそばに木箱や他の道具を置いた。
マストは、小屋に一つしかない部屋の、奥行きと同じくらい長かった。
小屋は、グアノと呼ばれるダイオウヤシの、若芽を包む硬い苞ほうでできていた。
中には、ベッド、テーブル、椅子が一脚あり、土間には炭を使って炊事が出来る場所もある。
丈夫な繊維からなるグアノの葉を伸ばして重ねて作られた褐色の壁には、
多色刷りの絵画が二枚掛けられていた。『イエスの聖心』、そして『コブレの聖母マリア』。
どちらも妻の形見だった。かつては、色あせた妻の写真もその壁に飾られていたが、
見るたびに老人はあまりにも淋しい気持ちになったので、取り外してしまった。
今ではその写真は、部屋の隅にある棚の、洗濯したシャツの下にしまってある。
「何を食べるの?」少年が尋ねた。
「魚の混ぜ飯めしがある。食べるか?」
「僕は家で食べるよ。火を起こそうか?」
「いや、後で自分で起こそう。冷たいままで食べてもいい」
「投網は持って行っていい?」
「ああ」
網など無かった。網を売ってしまった時のことは、少年も覚えている。
しかし二人はこの虚構を毎日繰り返していた。魚を混ぜた飯も無い。少年はそれも知っている。
「八五ってのは、良い数字だ」老人は言った。
「バラして千ポンドにもなるような、大物を釣ってくるのを見たいだろう?」
「僕、投網を持って行って、イワシを取ってくるよ。
戸口の、日の当たる所で座っててくれる?」
「ああ。昨日の新聞があるから、野球の記事でも読んでいよう」
昨日の新聞というのも作り話なのかどうか、少年には分からなかった。
しかし老人はベッドの下から新聞を取り出した。
「酒屋ボデガでペリコがくれたんだ」老人はそう説明した。
「イワシが獲れたら戻ってくるよ。サンチャゴの分と自分の分と一緒に、
氷に乗せておく。明日の朝に分けよう。戻ってきたら、野球の話を聞かせてよ」
「勝つのはヤンキースだろう」
「でもクリーブランド・インディアンスが怖いな」
「お前、ヤンキースを信じるんだよ。大ディマジオがいるじゃないか」
「デトロイト・タイガースも、クリーブランド・インディアンスも強いからなあ」
「しっかりしろよ、その調子だとシンシナティ・レッズとかシカゴ・ホワイトソックスまで怖くなるぞ」
「とにかくその辺を読んでおいてよ、戻ってきたら聞くからね」
「下二ケタが八五のくじを買っておくというのはどうだ。明日は八五日目だからな」
「いいね」少年は言った。「でも、八七のほうがいいんじゃない? サンチャゴのすごい記録じゃないか」
「あんなことは二度と起きないだろう。八五のくじを探せるか?」
「買えるよ」
「一枚な。二ドル半か。借りる当てがあるか?」
「簡単だよ。二ドル半くらい、いつでも借りられる」
「俺だって借りられないことはないんだがな。しかしやめておこう。
最初は借りてるつもりでも、気付けば物乞いだ」
「暖かくしててね」少年は言った。「もう九月なんだから」
「でかい魚が来る月だ」老人は言った。「五月なら、漁師の真似事くらい誰でもできるがな」
「じゃあ、イワシを獲りに行くよ」少年は言った。
少年が戻ってきたとき、老人は、椅子に座ったまま眠っていた。
既に日は沈んでいる。少年は、ベッドから古い軍用毛布をはがし、
拡げて椅子の後ろから老人の肩までを包んだ。奇妙な肩だった。
老いてはいるが、それでも力強い。
首も頑丈だし、眠り込んで頭を前に倒しているので皺もほとんど見えない。
彼のシャツは、帆と同様に継ぎはぎだらけで、ところどころ日に焼けて色あせていた。
顔はやはりずいぶん老いていて、目を閉じていると生気が感じられない。
膝の上には新聞が乗り、夕暮れ時の風にかすかに揺れる紙の束を、
腕の重みが押さえていた。彼は裸足だった。
。少年は老人をそのままにして部屋から出た。戻ってきたとき、老人はまだ眠っていた。
「起きてよ、サンチャゴ」少年は言って、老人の片膝に手を置いた。
老人は眼を開いた。少し時間をかけて、
遠い道のりを帰ってくるかのようだった。それから彼は微笑んだ。
「何を持ってきた?」老人は尋ねた。
「夕飯だよ」少年は言った。「一緒に食べよう」
「あまり腹が減ってない」
「食べようよ。食べずに漁はできないだろう?」
「やったさ」老人は言いながら体を起こして、新聞を手にとって折りたたんだ。それから毛布をたたみ始めた。
「毛布はかけておきなよ」少年は言った。「僕が生きている間は、食べずに漁なんてさせない」
「じゃあ長生きしてくれよ、体に気をつけてな」老人は言った。「何を食うんだ?」
「黒豆ご飯と、揚げバナナと、シチューがある」
少年は、それを二段の金属容器に入れてテラスから持ってきた。
ナイフとフォークとスプーンも二揃い、それぞれペーパーナプキンで包んで、ポケットに入っていた。
「誰にもらったんだ?」
「店の親父のマーティンだよ」
「礼を言わないといけないな」
「十分言っておいたよ」少年は言った。「サンチャゴは言わなくても大丈夫」
「でかい魚の、腹の肉をやろう」老人は言った。「こんなことは初めてじゃないんだろ?」
「そうかもね」
「腹の肉だけじゃ足りないな。ずいぶん世話になってるから」
「ビールも二本くれたよ」
「缶ビールだと最高だな」
「うん。でも瓶のアトウェイビールなんだ。瓶を返すのは僕がやるよ」
「悪いな」老人は言った。「食ったほうがいいか?」
「そう言ってるじゃないか」少年は優しく答えた。
「サンチャゴの用意ができてから蓋を開けたかったんだ」
「用意はできてる」老人は言った。「ちょっと手を洗う時間が必要だっただけだ」
どこで洗うんだろう。少年は思った。村の水道は、二つ下の通りまでしか来ていない。
水を汲んで来てあげなくちゃいけないな、それに、石鹸ときれいなタオルも。
どうして僕はこう気が利かないんだろう。シャツももう一枚要るし、
冬用のジャケットも、靴も要る。毛布ももう一枚必要だ。
「このシチューは素晴らしいな」老人は言った。
「野球の話をしてよ」少年は頼んだ。
「アメリカンリーグなら、やっぱりヤンキースだ」老人は嬉しそうに言った。
「今日は負けたよ」
「問題ない。大ディマジオが調子を取り戻すだろう」
「他の選手も強いしね」
「もちろんだ。だがディマジオは別格だな。ナショナルリーグなら、
ブルックリンかフィラデルフィアだが、まあブルックリンを取るほかない。
しかしディック・シスラーの、あの球場でのものすごい打球を思い出すと、
フィラデルフィアも捨てがたいぞ」「あんなバッターは他にいないね。
あんなに遠くまで飛ばす人は見たことないよ」
「あいつがテラスによく来てた頃を覚えてるか?
俺は漁に誘いたかったんだが、とうとう勇気が出なかった。
それでお前に誘わせようとしたけど、お前もやっぱり勇気が無かったんだ」
「うん、あれは失敗だったよ。一緒に来てくれたかもしれないのに。
そしたら一生の思い出になったのにね」
「俺は大ディマジオを漁に連れて行きたいんだ」老人は言った。
「あいつの親父は漁師だったらしいじゃないか。
きっと俺たちみたいに貧乏だったんだろうから、話も分かるだろう」
「大シスラーの親父は貧乏じゃなかったね。
あの親父さんは、僕くらいの頃にはもう大リーグでプレーしてたんだよ」
「俺がお前くらいの頃には、アフリカに通う横帆おうはん式の船で水夫をやってたな。
夕暮れ時には、砂浜にライオンが何匹もいるのが見えたものだ」
「うん、そう言ってたよね」
「アフリカの話がいいか、野球の話がいいか」
「野球がいいな」少年は言った。「ジョン・J・マグローのことを話してよ」
少年はJをスペイン語式にホタと発音した。
「あいつも昔は、テラスに時々来てたな。
でも飲んでると荒っぽくて口が悪くて、手に負えない奴だった。
野球と同じくらい馬が大好きでな、何は無くともポケットには必ず馬のリストが入ってるんだ。
しょっちゅう電話で馬の名前を言ってたよ」
「すごい監督だったんだよね」少年は言った。
「一番すごい監督はマグローだって、親父が言ってた」
「そりゃ、奴が一番ここに来てたからだ」老人は言った。
「ドローチャーが毎年ここに来てれば、親父さんはドローチャーが一番だって言うだろうよ」
「本当は、誰が一番なの? ルケ? それとも、マイク・ゴンザレス?」
「二人とも同じくらいだな」
「一番の漁師はサンチャゴだね」
「いや。もっと腕のいい奴は何人もいる」
「ケ・ヴァ(※とんでもない)」少年は言った。
「そりゃ、なかなかの漁師はいっぱいいるし、
すごい漁師もいるけど、一番はサンチャゴしかいないよ」
「ありがとう。嬉しいことを言ってくれるな。その褒め言葉をひっくり返すような、すごい魚が現れないことを祈ろう」
「そんな魚はいないよ。サンチャゴは今でも強い。そうだろう?」
「俺は自分で考えるほど強くないかもしれない」老人は言った。「だがやり方は色々あるし、それに、覚悟がある」
「サンチャゴ、明日元気に起きるには、もう寝たほうがいいね。僕、テラスに色々返してくるよ」
「じゃあ、おやすみ。朝になったら起こしに行く」
「サンチャゴは僕の目覚まし時計だよ」少年は言った。
「寄る年波が俺の目覚ましだ」老人は言った。「どうして年寄りは早起きなんだろうな。一日を長くするためか」
「分からないなあ」少年は言った。「分かるのは、子供は朝寝坊でなかなか起きないってことだね」
「俺もそうだった」老人は言った。「ちゃんと時間に起こしてやるよ」
「僕、親方に起こされるのは嫌なんだ。自分が格下みたいだからね」
「大丈夫」
「じゃあおやすみ、サンチャゴ」
少年は出て行った。二人は、灯りのないテーブルで食事をしたのだった。
老人はズボンを脱ぎ、暗闇の中でベッドに近づいた。新聞をズボンで巻いて枕にする。
毛布にくるまって、ベッドのスプリングを覆った古新聞の上に、彼は横になった。
老人はすぐに眠りに落ち、アフリカの夢を見た。彼はまだ少年だった。
広がる金色の砂浜、白く輝く砂浜。目を傷めそうなほど白い。
高々とそびえる岬、巨大な褐色の山々。最近の彼は毎晩、
この海岸で時を過ごすのだった。彼は夢の中で、打ち寄せる波の音に耳を傾け、
その波をかき分けて進む先住民たちの舟を眺めていた。眠っていても、
甲板からタールやマイハダの匂いが漂い、
朝になれば陸風りくかぜがアフリカの香りを運んでくるのだ。
いつもなら、陸風の香りで目を覚まし、着替えて少年を起こしに出かける。
しかし、今夜は陸風が匂うのが早すぎた。夢の中でもそれが早すぎると分かったから、
老人は、夢を見続けることにした。海に屹立する島々の白い頂いただきを眺め、
カナリア諸島のいくつもの港や停泊地を通り過ぎていく。
もはや老人の夢には、嵐も女も大事件も出てこない。
大きな魚も、喧嘩も、力比べも、死んだ妻も出てこない。
今の彼が夢に見るのは、色々な土地と、砂浜のライオンだけだ。
夕暮れの中で、ライオンたちは子猫のようにじゃれあっている。
老人は、少年を愛するのと同じくらい、ライオンたちを愛した。
彼の夢に、少年は決してあらわれなかった。
老人はふと目を覚ました。開いたままの戸口から、月を見る。
それから丸まったズボンを広げて、足を通した。
老人は小屋の外で小便をしてから、少年を起こすために坂道をのぼっていった。
朝の冷え込みで、体が震えた。
しかし、震えているうちに温かくなってくることは分かっていたし、
いずれにせよ、すぐに船を漕ぐのである。
少年の家には鍵がかかっていなかった。老人は戸を開けて、裸足で静かに入っていった。
少年は、入ってすぐの所にある粗末なベッドで寝ていた。
沈みかけた月の光が差し込み、老人には少年の姿がはっきり見えた。
老人は、少年の足をやさしくつかんだ。少年は目を覚まし、老人のほうを見た。
老人はうなずいた。少年は、ベッドのそばの椅子からズボンを取り、
ベッドに腰掛けてそれを履いた。老人が戸口から外に出る。
少年はまだ眠そうに後についていく。老人は彼の肩に手を回して言った。「ごめんな」
「ケ・ヴァ」少年は言った。「大人にとっては仕事のうちだよ」
二人は老人の小屋へと道を下っていった。まだ暗い道には、
裸足の男たちがそれぞれの船のマストをかついで歩いていた。
老人の小屋に着くと、少年は、ロープを入れた籠かごと、
銛もりと手鉤ギャフを手に持った。老人は、帆を巻きつけたマストを肩にかついだ。
「コーヒー飲む?」少年は言った。
「道具を船に運んでからにしよう」
二人は、朝の漁師が集まる店で、コンデンスミルク缶に注がれたコーヒーを飲んだ。
「よく眠れた?」少年は尋ねた。少年自身は、まだ完全に眠気が消えたとは言えないが、
ずいぶん目が覚めてきていた。「ぐっすり寝たよ、マノーリン」老人は答えた。
「今日は自信がある」
「僕もだよ」少年は言った。「さあ、イワシを獲ってこなくちゃ、
サンチャゴのも僕のも。あとサンチャゴの使う新しい餌もね。
うちの船では、道具はみんな親方が自分で運ぶんだ。人に運ばせるのを嫌がるんだよ」
「俺たちは違うな」老人は言った。「お前が五歳の頃から色々と運ばせてた」
「そうだね」少年は答えた。「すぐ戻ってくるから、もう一杯飲んでて。ここはツケがきくからね」
少年は裸足でサンゴ岩を踏み、餌が冷蔵してある氷室ひむろへと歩いて行った。
老人はゆっくりとコーヒーを飲んだ。彼の今日一日の食事はこれで全てだ。
だから飲まなければいけない。ずいぶん前から、
食べるというのは彼にとって面倒なことになっていた。弁当を持っていくことはなかった。
船の舳先へさきに、水を入れた瓶を一本置いておけば、一日それだけで十分だった。
少年は、イワシを携えて戻ってきた。餌にする小魚二匹も、新聞紙にくるんで持っている。
二人は、小石混じりの砂を足の裏に感じながら、船のところへ下りて行った。そして船を持ち上げ、水上へと滑らせた。
「頑張ってね、サンチャゴ」
「お前もな」老人は応えた。オールに結ばれた縄の輪っかを、
船体から突き出た小さな杭に通してから、彼は上体を前に倒す。
両方のオールで水を浜辺側に押し出し、暗い港から海へと漕ぎ出した。
他の砂浜からも、いくつもの船が漕ぎ出していた。
月は山の向こうに沈んでしまったから、船の様子は見えなかったけれど、
彼らのオールが水に入る音、水をかく音は、老人の耳にしっかりと届いていた。
時々、どこかの船から話し声がすることもあったが、ほとんどの船は静かで、
ただオールの音だけが聞こえてきた。港の出口を越えると、
船たちはばらばらに拡がっていった。
それぞれが魚の居場所にあたりをつけて大海へ向かうのだ。老人は遠くまで行くつもりだった。
彼は陸の匂いを後にして、朝の海の清々しい匂いの中を漕いで行った。
水の中で、ホンダワラとおぼしき海藻が燐光りんこうを放っているのが見えた。
深さが突然七〇〇尋ひろにもなっているこの辺りを、漁師たちは「大井戸」と呼ぶ。
海底の急斜面に海流がぶつかって渦を作り、あらゆる種類の魚が集まる場所だった。
小エビや小魚ベイトフィッシュ、時には深い穴の中にヤリイカの群れがいることもある。
それらが夜になって海面近くまで上がってくると、泳ぎ回る魚たちの格好の餌になるのだ。
暗闇の中で、老人は夜明けが近いのを感じた。漕ぎながら聞こえてくるのは、
海面から跳ね出るトビウオが身を震わせる音や、
闇の中を飛び去る彼らがその硬く頑丈な翼で風を切る音だった。
老人はトビウオを愛した。海の上ではトビウオが一番の友だったからだ
。そして彼は鳥を哀れんだ。特に、小さくてか弱い、黒いアジサシ。
いつでも飛び回って餌を探しているのに、ほとんど何も見つけられない。
老人は考える。鳥の一生は、俺たちの人生より苦しい。泥棒鳥とか、
でかくて強い鳥は別だが。なぜウミツバメみたいな、
弱くて繊細な鳥がつくられたんだろう、この残酷な海に。
いや、海は、優しくて美しい。でも残酷だ。突然残酷になるんだ。
悲しげに小さな声で鳴きながら飛び回り、急降下して餌を取ろうとするあの鳥たちは、
この海で生きるにはあまりに弱い。彼にとって海は「ラ・マール」であった。
海を愛する人々は、海のことをスペイン語の女性形でそう呼ぶ。
時に海を悪く言う場合でも、彼らにとって海は女性なのだった。若い漁師の中には、
ロープに繋ぐ浮きとしてブイを使ったり、
サメの肝臓で儲けた金でモーターボートを買ったりする者がいて、
そういう者は海を「エル・マール」と男性形で呼んでいた。
そういう若者にとって、海はライバルであったり単なる場所であったり、
場合によっては敵でさえあった。しかし老人にとって海はいつも女性であり、
大きな恵みをくれたりくれなかったりするものだった。
野蛮なことや危険なこともするが、それは彼女自身どうにも止められないことだ。
女性に月が影響するのと同じで、海にも月が影響する。老人はそう考えていた。
老人は弛たゆみなく漕いだ。自分のペースを保っている分には、
それほど力を込める必要もない。時に潮の流れが渦巻いているのを除けば、海面は静かだった。
老人は船を動かす仕事の三分の一を流れに任せた。
明るくなり始めた頃には、予定よりずっと遠くまで来ていた。
この一週間は大井戸で粘ったが、収穫はなかった。
今日はカツオやビンナガマグロの群れがいる辺りを狙ってやろう、
その群れの中にでかい奴がいるかもしれん。彼はそう考えていた。
夜が明けきる前に老人は仕掛けを下ろし、船の動きを流れに預けた。
一つ目の仕掛けは四〇尋まで沈めた。二つ目は七五尋、三つ目と四つ目はさらに海中深く、
一〇〇尋と一二五尋までロープが届いている。それぞれのロープの先では、
餌となる小魚が頭を下にして鉤かぎの軸に体を貫かれ、きつく縫い刺ざしにされていた。
鉤の先の、小魚の体から突き出た部分は、曲がっている部分も先っぽも、
新鮮なイワシで覆われていた。イワシたちは眼を串刺しにされ、
突き出た鋼鉄の棒の先に咲いた半円形の花びらのようだった。大きな魚がどこから近づいても、
すばらしい匂いと味を感じられるはずだ。
少年がくれた新鮮な餌は、小さなマグロ二匹だった。ビンナガというやつだ。
その二匹は、深いほうの二本の仕掛けにおもりのように吊り下げられていた。
別の二本には、大きなヒラアジとコガネアジが付いている。
こちらは昨日も使った餌だが、まだ十分使える状態だ。
そこに、匂いで獲物を惹きつけるための新鮮なイワシも一緒に付けてあるのだった。
四本のロープはどれも太めの鉛筆ほどの直径で、
切ったばかりの生木なまきの枝に結ばれていた。
魚が餌に触れたり餌を引っ張ったりすれば、枝がたわんで合図となる仕組みだ。
どのロープにも、四〇尋のロープを二本ずつ、控えとして付けてある。
控えのロープ同士は繋げられるようになっているので、いざという時には、
三〇〇尋以上の一本のロープにして魚に対応できるのだった。
老人は今、船べりを超えて突き出た三本の枝を見つめている。
ロープを垂直な状態にして、仕掛けの深さが変わらないように、
ゆっくりと漕いだ。辺りはもう明るい。間もなく日の出だろう。
海から、うっすらと太陽が昇り始める。海流の向こう側、ずっと岸寄りのほうには、
他の船たちが海面を這うように散らばっているのが見えた。
太陽が輝き、海面をぎらぎらと照らすと、その光は平らな海に反射して、
老人の眼を鋭く突き刺す。太陽はもうすっかり姿を見せている。
老人は顔を背けて漕いだ。そして水を覗き込み、
暗い海の中へとまっすぐに垂れたロープを見つめた。
彼は水中のロープを垂直に保っておくのが誰より上手かった。
この技術によって老人は、全ての餌を望み通りの深さに正確に配置し、
そこを泳ぐ魚を狙うことができるのだった。
他の漁師たちは餌が流れに漂うことを気にしないから、
一〇〇尋の深さを狙っているつもりが実際の餌は六〇尋の位置にあったりする。
だが俺の腕は確かだ、と老人は考えた。ただ運に見放されてるだけだ。
いや、そうとも限らん、今日はきっといける。毎日が、新しい一日だ。
運はあったほうがいいが、運任せでは駄目だ。そういう気持ちでいれば、
運がめぐってきた時に慌てることもない。
日の出から二時間が経った。東のほうを見ても、眼はさほど痛まない。
視界に入る船は三つだけだった。どれも遠く岸寄りにいて、海面に貼り付いて見える。
俺の眼は、明け方の太陽にずっと痛めつけられてきた。
だが今でもこの眼はよく見える。
夕方になれば、太陽を直視しても眼がくらむことはない。
夕方のほうが光は強いくらいだがな。それにしても、朝の光というのはきついものだ。
ちょうどその時、前方の空に、黒く長い翼を持つ軍艦鳥ぐんかんどりが旋回するのが見えた。
軍艦鳥は、翼を後ろにそらせて、斜めに急降下した。そしてまた旋回を始めた。
「何か見つけやがったな」老人は声に出して言った。「ただ探してる時の飛び方じゃない」
老人は、鳥が旋回するあたりに向かって、安定した動きでゆっくりと漕いで行った。
決して急がず、ロープは垂直に保ったままだ。正しい釣り方を崩さずに、
とはいえ鳥を目標として多少は速度を上げるために、老人は少しだけ潮流に近づいて進んで行った。
鳥は空高く舞い上がり、翼を動かさずに旋回したかと思うと
、突然また降下した。海からはトビウオたちが跳ね上がって、必死に水面を走った。
「シイラだ」老人は言った。「でかいシイラがいる」
老人はオールを船内におさめると、舳先へさきから細いロープを取り出した。
それには針金の鉤素はりすと、中くらいの大きさの釣り針がついていた。
老人は、そこにイワシを一匹つけ、船べりから投げた。
そしてロープの端を船尾のリングボルトにしっかり結びつけた。
それから別のロープにも餌をつけ、こちらは巻いたまま舳先に置いておいた。
彼は再び漕ぎ始め、黒く長い翼の鳥が水面近くで飛び回るのを見つめていた。
老人が見ていると、鳥はまた翼を傾けて急降下し、むやみに大きく羽ばたいて、トビウオを追った。その時、水面がわずかに盛り上がるのが見えた。逃げるトビウオを狙って、大きなシイラの群れが海面に近づいているのだ。シイラたちは、滑空するトビウオの下を、水を切り裂きながら進んでいく。トビウオが水に落ちる地点まで猛進し続けるだろう。これは大群だ、と老人は思った。奴らは大きく広がっている。トビウオが逃げ切る見込みはほとんど無いな。鳥がうまくやれる見込みはもっと無い。あの鳥にはトビウオは大きすぎるし、トビウオのほうがずっと速い。
トビウオが次々と海面から跳ね、鳥がむなしく飛び回る様子を、
老人はじっと見ていた。彼は考えた。シイラの大群には逃げられたな、
奴らの泳ぎはかなり速いし、もうずいぶん遠い。
だが、はぐれた奴が釣れることもあるだろう。
それに、大物が奴らの後あとを泳いでいるかもしれん。
俺の狙う大魚は、どこかに必ずいるんだ。
陸地のほうには、雲が山のように盛り上がっていた。
海岸は、長く続く一本の緑色の線でしかなく、その背景にはくすんだ青色の丘が並んでいる。
海の青は暗く、ほとんど紫色のようだった。
海の中を見下ろすと、暗い水中に赤く散らばるプランクトンや、
太陽の作り出す不思議な光の模様が見えた。
老人は、闇の中にまっすぐに垂れ下がるロープを見つめ、水中にプランクトンが多いことを喜んだ。
それは、魚がいる印だからだ。高く昇った太陽が、
水中にあの不思議な光の模様を作るのは、天気のいい印である。陸地の上の雲の形もそうだ。
鳥は、もうほとんど見えなくなってしまった。
海面に見えるのは、日に焼けて黄色くなったホンダワラの切れ端と、
船のすぐそばを漂うカツオノエボシだけだ(※カツオノエボシとは電気クラゲのこと。
老人はこれを「悪い水」という意味のスペイン語で「アグア・マーラ」と呼ぶ)。
カツオノエボシは、綺麗な形をしたゼラチン質の浮き袋を紫色の虹のように輝かせながら、
ひっくり返ったり元に戻ったりしていた。
まるで泡のように陽気に漂っていたが、
水中には毒々しい紫色の細長い触手を一ヤードもなびかせているのだった。
「アグア・マーラか」彼は言った。「娼婦め」
老人はオールを軽く押し、そこで海の中をのぞきこんだ。
触手と同じ色の小魚たちが、触手の間や、漂う泡の陰を泳ぎ回っていた。
小魚たちは毒に対して免疫があるのだ。しかし、人間はその免疫を持たない。
もしも触手がロープに絡み、ぬるぬると紫色にまとわりつけば、
ロープを引っ張る老人の手や腕に、みみず腫ばれと痛みをもたらすことになるだろう。
ツタウルシの毒でかぶれるのと似ているが、
アグア・マーラの毒はもっと速く、鞭で打つように人を襲う。
虹色の泡は美しい。しかし奴らは海で一番の詐欺師だ。
老人は、大きな海亀が奴らを食べてしまうのを見るのが大好きだった。
海亀は、カツオノエボシを見つけると、正面から近づいて行き、眼を閉じて全身の守りを固め、
触手ごと丸々食べてしまうのだ。老人は、
海亀が奴らを食べる様子を見るのも、嵐の後の浜辺でカツオノエボシの上を歩いて、
硬いかかとで踏みつけてポンと破裂する音を聞くのも好きだった。
彼は、アオウミガメやタイマイを愛していた。
優雅で、泳ぎが速く、値打ちがあるからだ。
大きくて愚かなアカウミガメには、軽蔑混じりの親しみを抱いていた。
黄色い鎧を着けて、おかしな求愛行動をする奴で、
カツオノエボシを食べる時には幸せそうに眼を閉じるのだった。
老人は過去に何年も海亀獲りの船に乗っていたが、
海亀を神秘的な生き物だとは思っていなかった。むしろ哀れに思っていた。
小船と同じくらいの大きさで体重は一トンもあろうかという巨大なオサガメのことさえ、
哀れんでいた。ほとんどの人間は、海亀に対して冷淡だ。
海亀の心臓は、体が切り刻まれても一時間は動き続けるからだ。
しかし老人は、自分の心臓だって同じだと思っていた。脚や手だって、亀と変わらない。
彼は力をつけるために、海亀の白い卵を食べていた。
五月中は卵を毎日食べて力をつけ、九月から十月には超大物と戦うのだ。
彼はサメ肝油も飲んでいた。漁師たちの道具小屋にある、
大きなドラム缶から、毎日一杯ずつ飲む。
飲みたい漁師は誰でも飲めるように置いてあるのだが、
たいていの漁師はその味を嫌っていた。
しかし、早い時間に起き出す大変さに比べれば何てことはないし、
飲んでいれば風邪やインフルエンザにも強くなる。おまけに眼にも良いのだ。
老人がふと見上げると、あの鳥が、また旋回を始めていた。
「魚を見つけたな」彼は声に出して言った。海面を跳ねるトビウオはおらず、
小魚が散らばる様子もなかった。が、老人が見ていると、
小さなマグロが一匹跳ね上がり、空中で逆さになって頭からまた水に潜った。
日光で銀色に輝くそのマグロが水中に消えてしまうと、
次から次へとマグロたちが飛び上がり、四方八方に跳ねまくった。
水をかき回し、餌を求めて大きく飛び跳ねる。
そして輪を描いて獲物を追い込もうとしていた。
マグロたちの動きがあんなに速くなければ、
あの真ん中に船を突っ込んでやるんだがな。老人はそう考えた。
マグロの群れが水を白く泡立たせる様子や、
パニックになって水面に上がってきた小魚を狙って鳥が急降下を繰り返す様子を、
老人は見つめていた。「あの鳥にはずいぶん世話になる」老人は言った。
その時、彼の足の下で輪にしてあったロープが、船尾のほうからぐっと引っ張られた。
老人はオールから手を離した。ロープを堅く握って手繰り寄せると、
小さなマグロが体を震わせながら引っ張っている力を感じる。
震える力は、ロープを引けば引くほど強くなっていった。
水の中から、魚の青い背中と金色のわき腹が見えてきた。
そして彼は、船べりを越えて魚を船に引き入れた。
魚は太陽に照らされ、引き締まった弾丸のような体をして、
大きく無表情な目を見開きながら、良い形のよく動く尾を素早く震わせ、
船板ふないたにその生命を打ちつけている。老人は優しさから、
魚の頭を叩き、蹴飛ばした。魚は船尾の陰に飛び、それでも震え続けている。
「ビンナガだ」老人は声に出して言った。「いい餌になるぞ。十ポンドはありそうだ」
声に出して独り言を言うようになったのはいつからだったか、
彼は覚えていなかった。昔は、一人のときには歌を口ずさんだものだ。
魚槽付小型船スマックや亀獲り船で、寝ずに舵取りの番をするような時など、
たまに歌を唄っていた。老人が独り言を言うようになったのはきっと、
少年が去って、一人になってからだろう。しかし定かではなかった。
少年と一緒に漁に出ていた頃は、必要な時以外ほとんど会話をしなかった。
二人が話すのは、夜とか、悪天候で船を出せないときだ。
海では不必要に喋らないのが美徳だったし、
老人はいつでもその美徳を尊重していた。しかし今、
彼は自分が思ったことをたびたび声に出す。それで困る者もいないからだ。
「べらべら喋っているのを誰かが聞いたら、
俺のことを気違いだと思うだろうな」老人は声に出して言った。
「だが気違いじゃない。だから構わないんだ。
金持ちの奴らなどラジオを持っていて、船の中で喋らせるどころか、
野球の実況までさせてるじゃないか」今は野球のことを考える時じゃない、
彼は思った。考えるべきは、たった一つ。そのたった一つのために、
俺は生まれてきたのだ。この群れのまわりに、大物がいるかもしれない。
まだ、餌を追うビンナガの群れから逸はぐれた一匹を釣っただけだ。
しかし群れはもう遠く、速い。今日は水面に見える全てが、
北東に向かって高速で動いているようだ。時間帯のせいか。
それとも、俺の知らない、天気が変わる前兆だろうか。
緑色の海岸線はもう見えない。
見えるのは、青い丘の頂いただきがまるで雪をかぶったかのように白く光る様子と、
その上に高い雪山のように広がる雲だけだった。海はとても暗く、
差し込む光が水の中にプリズムを作っていた。
無数の斑点のようなプランクトンたちの姿は、
高く昇った日の光でかき消されている。老人の目に映るのは、
青い水の中に深々と延びるプリズムと、
一マイルの深さまで真っ直ぐに垂らされている彼のロープだけだった。
マグロたちは――漁師はこの種の魚を全てマグロと呼び、
売ったり餌と交換したりする時だけそれぞれの名前を用いて区別していた、
再び潜ってしまった。太陽はもう熱く、老人はうなじでそれを感じた。
漕ぎながら、背中に汗が流れるのが分かった。
漕がずに流すという手もある、と彼は思った。たとえ眠っても、
第2話に続きます。
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