坊っちゃん・夏目漱石:五~六
坊っちゃん・夏目漱石:五~六
現代語訳:Relax Stories TV
「釣りに行かない?」と赤シャツが僕に尋ねた。彼は、なんとも言えない優しい声を持つ男だ。男か女か、はっきりしない。男なら男らしい声を出すべきだが、彼は文学士だ。物理学部の生徒でさえ、僕ほどの声が出るのに、文学士がこれでは見苦しい。「そうだな」と僕はあまり進展しない返事をした。その瞬間、赤シャツは「釣りをしたことがありますか?」と失礼な質問を投げかけてきた。あまりないが、子供の頃、小梅の釣り堀でフナを3匹釣ったことがある。それから、神楽坂の毘沙門の縁日で、8寸ほどのコイを針で引っ掛けたが、ポチャリと落としてしまった。今でも考えると、惜しいと思う。すると、赤シャツは顎を前に突き出し、「ホホホホ」と笑った。何もそんなに気取って笑わなくてもいいのに。「それなら、まだ釣りの楽しさは分からないですね。
よろしければ、少し教えてあげましょう」と彼はとても得意そうだった。誰があなたの教えを受けるものか。一体、釣りや狩りをする人たちは無情な人間ばかりだ。無情でなければ、生き物を殺して喜ぶことはない。魚だって、鳥だって、殺されるより生きている方が楽だろう。釣りや狩りをしなければ生計が立たないなら別だが、何不自由なく生活しているのに、生き物を殺さなければ眠れないとは贅沢な話だ。そう思ったが、向こうは文学士だから口が達者だ。議論では勝てないと思い、黙っていた。すると、赤シャツは僕を降参させたと誤解し、「さっそく教えてあげましょう。今日はどうですか?一緒に行きましょう。吉川君と二人だけだと寂しいから、来てください」としきりに勧めてきた。
吉川君というのは美術の教師で、例の野田のことだ。この野田は、どういうわけか、赤シャツの家に朝晩出入りし、どこへでも一緒に行く。まるで同僚ではなく、主従のようだ。赤シャツが行くところには、野田も必ずついてくるから、今さら驚くこともないが、二人で行けば済むところを、なぜ無愛想な僕に声をかけたのだろう。きっと高慢な釣り師で、自分が釣るところを僕に見せびらかすつもりで誘ったのだろう。そんなことで見せびらかされる僕じゃない。マグロを2匹や3匹釣ったって、ビクともしない。僕だって人間だ、下手だって糸さえ垂れれば、何かは釣れるだろう。ここで僕が行かないと、赤シャツは「下手だから行かないんだ、嫌いだから行かないんじゃない」と邪推するに違いない。
僕はそう考え、「行きましょう」と答えた。それから、学校を終えて、一応家に帰り、準備を整えて、駅で赤シャツと野田を待ち合わせて海岸へ向かった。船頭は一人で、船は細長くて、東京では見たこともない形だ。船中を見渡しても釣竿が一本も見えない。釣竿なしで釣りができるものか、どうするつもりなのか、野田に聞くと、「沖釣りには竿は使いません、糸だけで十分です」と顎を撫でて黒人のように言った。こんなに困らせられるくらいなら、黙っていればよかった。
船頭はゆっくりと漕いでいるが、その熟練ぶりは恐ろしいものだ。振り返ると、すでに海上から見ると浜辺が小さく見えるほど遠くまで出ていた。高柏寺の五重塔が森の上に突き出て、針のように尖って見える。反対側を見ると、青島が浮かんでいる。これは人が住んでいない島だそうだ。よく見ると、石と松ばかりだ。確かに、石と松ばかりでは住むことはできないだろう。赤シャツは何度も眺めては「いい景色だ」と呟いている。野田も「絶景だ」と言った。絶景だろうが何だろうが、気持ちのいいことには違いない。
広々とした海の上で、潮風に吹かれるのは気分がいい。すごくお腹が空く。「あの松を見てみて、幹がまっすぐで、上が傘のように広がっていて、ターナーの絵に出てきそうだ」と赤シャツが野田に言うと、野田は「まさにターナーですね。あの曲がり具合はなかなかありませんね。ターナーそのものですよ」と得意げに言った。ターナーとは何のことか知らないが、聞かなくても困らないことだから黙っていた。船は島を右に見て一周した。波は全くない。これが海だとは思えないほど平らだ。赤シャツのおかげでとても楽しい。
できることなら、あの島に上がってみたいと思ったから、あの岩のあるところに船を着けられないのかと聞いてみた。着けられないことはないが、釣りをするには、あまり岸に近いところはいけないと赤シャツが反論した。僕は黙っていた。すると野田が「どうですか、先生、これからあの島をターナー島と名付けましょう」と余計な提案をした。赤シャツは「それは面白い、僕たちはこれからそう呼ぼう」と賛成した。この「僕たち」の中に僕も含まれているなら迷惑だ。僕にとっては青島で十分だ。「あの岩の上に、どうですか、ラファエロのマドンナを置いてみましょう。いい絵ができますよ」と野田が言うと、「マドンナの話はやめておこうか」と赤シャツが気味の悪い笑い方をした。
誰もいないから大丈夫だと、ちょっと僕の方を見たが、わざと顔をそむけてにっこりと笑った。僕は何だか嫌な気持ちになった。マドンナだろうが、小旦那だろうが、僕には関係ないことだから、勝手に立てておけばいい。人に分からないことを言って、分からないから聞いたら困るような態度をとる。下品な仕草だ。それで本人は「私も江戸っ子です」と言っている。マドンナというのは、何でも赤シャツの馴染みの芸者のあだ名か何かに違いないと思った。馴染みの芸者を無人島の松の木の下に立てて眺めていれば、それで十分だ。それを野田が油絵にでも描いて展覧会に出したらいいだろう。
船頭が良い場所を見つけて船を停め、アンカーを下ろした。「ここは何メートルくらい深いのか?」と赤シャツが尋ねると、「約6メートルだ」と答えた。
赤シャツは、「6メートルでは鯛を釣るのは難しいな」と言いながら、糸を海に投げ入れた。彼はどうやら大物を狙っているようだ。野田は、「教頭の腕前なら、きっと釣れますよ。それに、今日は穏やかな海ですから」とお世辞を言いながら、自分も糸を海に投げ入れた。ただ、先についているのは錘のような鉛だけで、浮きはない。
浮きがないまま釣りをするのは、温度計なしで温度を測るようなものだ。私は見ていて、これでは釣りは絶対にできないと思った。すると突然、「あ、来た!」と先生が糸を引き始めた。何か釣れたのかと思ったら、何も釣れていない。餌がなくなっていただけだった。ざまあ見ろ。
「教頭、残念でしたね。今のは確かに大物だったんですが、教頭の腕前では逃げられてしまうんですね。今日は油断ができませんよ。でも、逃げられても何です。浮きを見つめている人たちよりはましですよ。自転車に乗るのにブレーキがないといけないのと同じですからね」と野田は変なことばかり言う。私は彼をぶん殴ろうかと思った。
私だって人間だ。教頭だけが海を独占しているわけではない。広い海だ。カツオの一匹くらい、義理でも釣れてくれるだろうと思い、錘と糸を海に投げ入れ、適当に指で操作した。しばらくすると、何かが糸を引っ張る感じがした。私は考えた。これは魚に違いない。生きているものでなければ、こんなにピクピクと動くわけがない。
やった、釣れたと思い、ギュッと糸を引き寄せた。「おや、何か釣れましたか?後世が恐ろしいですね」と野田がからかううちに、糸はほとんど引き寄せられ、水に浸かっているのはあと五尺ほどだけだった。船の端から覗いてみると、金魚のような縞模様の魚が糸にくっついて、右左に揺れながら、手の動きに応じて浮かび上がってきた。面白い。
水面から引き上げるとき、魚が跳ねて私の顔が潮水でびしょびしょになった。ようやく魚を取り込んで、針を外そうとしたが、なかなか外れない。魚を握った手はヌルヌルしていて、とても気持ち悪かった。面倒くさくなって糸を振り回し、魚を船の中に投げ入れたら、すぐに死んでしまった。赤シャツと野田は驚いて見ていた。
私は海で手を洗い、鼻の先に持ってきてみた。まだ魚臭い。もう二度とやりたくない。魚も握られたくないだろう。そうだ、糸を巻き上げてしまおう。それで釣りは終わりだ。
一番乗りはすごいけど、ゴルキみたいだね、と野田がまた生意気に言うと、ゴルキってロシアの作家みたいな名前だね、と赤シャツがジョークを言った。「そうだね、まるでロシアの作家みたいだね」と野田はすぐに同意した。ゴルキがロシアの作家で、丸木が芝の写真家で、米の木が命の親だろう。
この赤シャツには本当に悪い癖がある。誰を捕まえても、カタカナの外国人の名前を並べたがる。人にはそれぞれ専門があるものだ。僕のような数学の教師にゴルキだとか車力だとか、そんなの分かるわけないだろう。少しは遠慮するべきだ。
言うならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、僕でも知ってる名前を使うべきだ。赤シャツは時々「帝国文学」という真っ赤な雑誌を学校に持ってきて、得意げに読んでいる。山嵐に聞いてみたら、赤シャツのカタカナはみんなその雑誌から出ているんだそうだ。「帝国文学」も罪な雑誌だ。
それから赤シャツと野田は一生懸命に釣りをしていたが、約一時間ほどで二人で15-16匹釣った。面白いことに釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。鯛なんて、どうやっても釣れない。今日はロシア文学の大当たりだと赤シャツが野田に話している。「あなたの腕前でゴルキなんだから、私がゴルキなのは仕方がない。当然だよね」と野田が答えている。
船頭に聞くと、この小魚は骨が多くて、まずくて、とても食べられないんだそうだ。ただ肥料にはなるそうだ。赤シャツと野田は一生懸命に肥料を釣っているんだ。気の毒だ。僕は一匹でうんざりしたから、船の中で仰向けになって、ずっと空を眺めていた。釣りよりもこれの方がずっと洒落ている。
すると二人は小声で何か話し始めた。僕にはよく聞こえないし、また聞きたくもない。僕は空を見ながら清のことを考えている。お金があって、清を連れて、こんなきれいな場所に遊びに来たら、きっと楽しいだろう。
どんなに景色がいいとしても、野田なんかと一緒じゃつまらない。清はしわくちゃのおばさんだけど、どんな場所に連れて行っても恥ずかしいとは思わない。野田のような人は、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣に登ろうが、絶対に近づけない。
僕が教頭で、赤シャツが僕だったら、やっぱり僕にお世辞を使って赤シャツをからかうに違いない。江戸っ子は軽薄だと言うけど、こんな人が田舎を回って、僕は江戸っ子だと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄だと田舎者が思うに違いない。
こんなことを考えていると、何だか二人がくすくすと笑い始めた。
笑い声の合間に何か言っているが、途切れ途切れで全く意味が分からない。
「え? どうだか……」
「……全くです……知らないんですから……罪ですね」
「まさか……」
「バッタを……本当ですよ。」
僕は他の言葉には耳を傾けなかったが、バッタという野田の言葉を聞いたとき、思わず身をすくめた。
野田は何のためかバッタという言葉だけ力を入れて、明瞭に僕の耳に入るようにし、その後をわざとぼかしてしまった。
僕は動かずにやはり聞いていた。
「また例の堀田が……」
「そうかもしれない……」
「天ぷら……ハハハハハ」
「……扇動して……」
「団子も?」
言葉は途切れ途切れだけど、バッタだの天ぷらだの、団子だのという部分から推測すると、
何でも僕のことについて内緒話をしているに違いない。
話すならもっと大きな声で話すべきだし、内緒話をするくらいなら、僕を誘わなければいい。
嫌な奴らだ。バッタだろうが雪踏みだろうが、非は僕にあるわけじゃない。
校長が一応預けろと言ったから、狸の顔をして今のところは控えているんだ。
野田のくせに無関係な批評をしてくる。
筆でもしゃぶって引っ込んでいるべきだ。
僕のことは、遅かれ早かれ、僕一人で片付けてみせるから、邪魔はないが、
また例の堀田がとか扇動してとかいう言葉が気になる。
堀田が僕を扇動して騒ぎを大きくしたのか、
あるいは生徒を扇動して僕をいじめたのか、その方向がわからない。
青空を見ていると、日の光がだんだん弱くなり、少し冷たい風が吹き出した。
線香の煙のような雲が、透き通る空の上を静かに伸びて行ったと思ったら、
いつの間にか空の奥に流れ込んで、薄く霞をかけたようになった。
もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように言うと、「ええ、ちょうどいい時間ですね。
今夜はマドンナの君に会いますか」と野田が言う。
赤シャツは「馬鹿なこと言っちゃダメだよ、間違いだよ」と、船の端に身をもたせた奴を、少し起き直す。
「エヘヘヘヘ、大丈夫ですよ。聞いたって……」と野田が振り返った時、
僕は皿のような目を野田の頭の上にまともに向けてやった。
野田はまぶしそうに後ずさりして、「や、こいつは降参だ」と首を縮めて、頭をかいた。
何という口の利き方だろうか。
船は静かな海を岸へと漕ぎ戻る。
「君、釣りはあまり好きじゃないみたいだね」と赤シャツが聞くから、「うん、寝て空を見る方がいい」と答えて、
吸いかけたタバコを海の中へ投げ込んだら、ジュッと音がして、
オールの動きでかき分けられた波の上を揺らめきながら流れていった。
「君が来たから生徒も大いに喜んでいるから、頑張ってやってくれ」と今度は釣りには全く関係ないことを話し始めた。
「そんなに喜んでもいないでしょう」
「いや、お世辞じゃない。本当に喜んでいるんだよ、ね、吉川君」
「喜んでるどころじゃない。大騒ぎだよ」と野田はにっこりと笑った。
この奴の言うことは一つ一つがイライラさせるから不思議だ。
「でも君、注意しないと、厄介なことになるよ」と赤シャツが言うから、
「どうせ厄介だよ。こうなったら厄介は覚悟だ」と言ってやった。
実際、僕は免職になるか、寄宿生を全部謝らせるか、どちらか一つにするつもりだった。
「そう言っちゃ、取り付きどころもないけど――実は僕も教頭として君のためを思って言うんだけど、
悪く取らないでほしい」
「教頭は全く君に好意を持ってるんだよ。
僕も及ばずながら、同じ東京っ子だから、なるべく長く在校してもらいたくて、
お互いに力になろうと思って、これでも影で努力しているんだよ」と野田が人間らしいことを言った。
野田のお世話になるくらいなら首を吊って死んじまうほうがましだ。
「それでね、生徒は君が来たのを大変歓迎しているんだけど、
そこにはいろいろな事情があってね。
君も腹の立つこともあるだろうけど、ここが我慢だと思って、辛抱してくれたまえ。
決して君のためにならないようなことはしないから」
「いろいろの事情って、どんな事情ですか」
「それが少し複雑なんだけど、まあだんだん分かるよ。
僕が話さなくても自然と分かってくるんだ、ね、吉川君」
「うん、なかなか複雑だからね。一朝一夕には到底分からない。
でもだんだん分かるよ、僕が話さなくても自然と分かってくるんだ」と野田は赤シャツと同じようなことを言う。
「そんな面倒な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから聞くんです」
「それはごもっともだ。こっちで口を切って、後をつけないのは無責任だよね。
それじゃこれだけのことを言っておこう。君は失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、
教師は初めての経験だろう。でも学校というものはなかなか情実のあるもので、
そう学生風に淡泊にはいかないんだよ」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんですか」
「さあ、君はそう率直だから、まだ経験に乏しいと言うんだけどね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書にも書いてありますが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思わぬところから乗じられることがあるんだよ」
「正直にしていれば誰が乗じたって怖くはないです」
「もちろん怖くはない、怖くはないけど、だまされることがあるんだ。実際、君の前任者がだまされたんだから、気をつけないといけないと言ってるんだ。」野田が大人しくなったなと思って振り向いて見ると、いつの間にか船頭と釣りの話をしている。野田がいないから話しやすくなった。
「僕の前任者が、誰にだまされたんですか?」
「誰と指すと、その人の名誉に関係するから言えない。また明確な証拠のないことだから言うとこっちの落ち度になる。とにかく、せっかく君が来たから、ここで失敗しちゃ僕たちも君を呼んだ意味がない。どうか気をつけてくれ。」
「気をつけろって、これ以上気をつけようがありません。悪いことをしなければいいんでしょうか?」赤シャツはホホホホと笑った。特に僕は笑われるようなことを言った覚えはない。今日までこれでいいとしっかり信じている。考えてみると世間の大部分の人は悪くなることを奨励しているように思う。悪くならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それなら小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。思い切って学校で嘘をつく方法や、人を信じない術、人をだます策を教える方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、僕の単純さを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕方がない。清はこんな時に決して笑ったことはない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツよりずっと上等だ。
「無論、悪いことをしなければいいのだが、自分だけが悪いことをしなくても、人の悪さが分からなければ、やっぱりひどい目に遭うよ。世の中には清廉なように見えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断のできない人がいるから……。だいぶ寒くなった。もう秋だね、浜の方は霞でセピア色になった。いい景色だ。おい、吉川君、どうだい、あの浜の景色は……」と大きな声を出して野田を呼んだ。
「なるほどこれは素晴らしいですね。時間があればスケッチするんだけど、惜しいですね、このままにしておくのは」と野田は大いに感嘆した。
港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛がヒューと鳴るとき、僕の乗っていた船は磯の砂へズグリと舳先を突き込んで動かなくなった。「お早う、お帰り」と、奥さんが浜に立って赤シャツに挨拶する。僕は船端から、やっと掛け声をして磯へ飛び下りた。
野田は大嫌いだ。こんな奴は石をつけて海の底へ沈める方が、日本にとって良いだろう。赤シャツの声が気に入らない。あれは持ち前の声をわざと気取って、優しそうに見せかけているのだろう。
いくら気取ったって、あの顔じゃダメだ。惚れるものがあったとしても、マドンナぐらいなものだ。しかし教頭だけに、野田より難しいことを言う。家に帰って、あいつの言い分を考えてみると、一応もっともなようでもある。
はっきりとしたことは言わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐がよくない奴だから用心しろと言うのらしい。それなら、そうとはっきり断言すればいい。男らしくもない。そんな悪い教師なら、早く免職させたらよかろう。
教頭なんて、文学士のくせに意気地のないもんだ。影口をきくのでさえ、公然と名前が言えないくらいな男だから、弱虫の極みだ。弱虫は親切なもんだから、あの赤シャツも女のような親切者なんだろう。
親切は親切、声は声だから、声が気に入らないという理由で、親切を無にしちゃ筋が違う。それにしても世の中は不思議なものだ。虫の好かない奴が親切で、気の合った友達が悪漢だなんて、人を馬鹿にしている。
大方田舎だから、万事東京の逆に行くんだろう。物騒な所だ。今に火事が氷って、石が豆腐になるかもしれない。しかし、あの山嵐が生徒を扇動するなんて、いたずらをしそうもないがな。
一番人望のある教師だと言うから、やろうと思えば大抵のことはできるかもしれないが――第一、そんな回りくどいことをしないでも、直接僕を捕まえて喧嘩を吹っ掛ければ手間が省けるわけだ。
僕が邪魔になるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと言えば、よさそうなもんだ。物は相談次第でどうにでもなる。向こうの言い分がもっともなら、明日にでも辞職してやる。
ここばかり米ができるわけでもあるまい。どこの果てへ行ったって、のたれ死にはしないつもりだ。山嵐もよっぽど話せない奴だな。
ここへ来た時、最初に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、僕の顔に関わる。僕はたった一杯しか飲まなかったから、一銭五厘しか払わなかった。
しかし、一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。明日学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。僕は清から三円借りている。その三円は五年経った今日までまだ返さない。
返せないんじゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、一時的にも僕の懐中をあてにしてはいない。僕も今に返そうなどと、他人がましい義理立てはしないつもりだ。
こっちがこんな心配をすればするほど、清の心を疑うようなもので、清の美しい心にけちをつけるのと同じことになる。返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清を僕の片割れと思うからだ。
清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとえ氷水だろうが、甘茶だろうが、他人から恵みを受けて、黙っているのは、向こうを一流の人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。
割前を出せばそれだけのことですむところを、心の中で感謝と恩に着るのは、金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは、百万両より尊いお礼と思わなければならない。
僕はこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊い返礼をした気でいる。山嵐は感謝してしかるべきだ。それに裏へ回って卑劣な振る舞いをするとは信じられない野郎だ。
明日行って一銭五厘返してしまえば、借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。
私はここまで考えた結果、眠くなり、すぐに寝てしまった。
次の日は色々と考えることがあったから、いつもより早く学校に出て、山嵐を待った。しかし、山嵐はなかなか現れない。
うらなりが現れ、漢学の先生が現れ、野田が現れる。最後には赤シャツまで現れたが、山嵐の机の上にはただ白チョークが一本立っているだけで、静かなものだった。
私は、休憩室に入るかどうか迷っていた。家を出る時から、お金を手のひらに握って学校まで持ってきた。手が汗っかきなので、開けてみると、そのお金が汗で濡れている。
汗で濡れたお金を返すと、山嵐が何と言うだろうと思ったので、机の上に置いて吹いてまた握った。
そこへ赤シャツが来て、「昨日は失礼、迷惑でしたね」と言ったから、「迷惑じゃないです、おかげでお腹が減りました」と答えた。
すると赤シャツは山嵐の机の上に肘をつき、その顔を私の鼻の横に持ってきたので、何をするのかと思ったら、「君、昨日帰り際に船の中で話したことは、秘密にしてくれ。まだ誰にも話してないよね」と言った。
女のような声を出すだけに、心配性な男だと思える。話さないことは確かだ。しかし、これから話そうと思って、すでに手のひらにお金を用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口止めをされると、ちょっと困る。
赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名前を出さないにしろ、あれほど推測できる謎を出しておきながら、今さらその謎を解くのが迷惑だとは、教頭とは思えない無責任さだ。
本来なら、私が山嵐と戦争を始めている最中に堂々と私の味方をするべきだ。それこそが一校の教頭であり、赤シャツを着ている意味があるというものだ。
私は教頭に向かって、「まだ誰にも話してないけど、これから山嵐と話し合うつもりだ」と言ったら、赤シャツは大いに動揺して、「君、そんな無法なことをすると困る。僕は堀田君のことについて、特に君に何も明言した覚えはないんだから。君がここで乱暴を働くと、僕は非常に迷惑する。君は学校で騒ぎを起こすつもりで来たんじゃないだろう」と、不思議な質問をするから、「当然です、給料をもらって騒ぎを起こすと、学校の方でも困るでしょう」と言った。
すると赤シャツは、「それじゃ、昨日のことは君の参考だけにして、口外しないでくれ」と汗をかいて頼むから、「いいですよ、私も困るんですが、そんなにあなたが迷惑ならやめましょう」と受け入れた。
「君、大丈夫だよね」と赤シャツは念を押した。どこまで心配性なのか、理解できない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらないものだ。
つじつまが合わない、論理に欠けた注文をして平然としている。しかもこの私を疑っている。恥ずかしがり屋な男だ。受け入れたことを裏で反故にするような卑怯な考えは持っているものか。
俺はここまで考えたら、眠くなったからすぐに寝てしまった。次の日は色々と考えることがあったので、いつもより早く学校に出て、山嵐を待った。しかし、なかなか現れない。
うらなりが現れ、漢学の先生が現れ、野田が現れる。最後には赤シャツまで現れたが、山嵐の机の上にはただ白チョークが一本立っているだけで、静かなものだった。
俺は休憩室に入るかどうか迷い、家を出る時からお金を手のひらに握って学校まで持ってきた。俺は汗っかきなので、開けてみると、そのお金が汗で濡れていた。濡れたお金を返すと、山嵐が何と言うだろうと思ったので、机の上に置いて吹いてまた握った。
そこへ赤シャツが来て、「昨日は失礼、迷惑でしたね」と言ったから、「迷惑じゃないです、おかげでお腹が減りました」と答えた。すると赤シャツは山嵐の机の上に肘をつき、その顔を俺の鼻の横に持ってきたので、何をするのかと思ったら、「君、昨日帰り際に船の中で話したことは、秘密にしてくれ。まだ誰にも話してないよね」と言った。
女のような声を出すだけに、心配性な男だと思える。話さないことは確かだ。しかし、これから話そうと思って、すでに手のひらにお金を用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口止めをされると、ちょっと困る。
赤シャツもまた心配性だ。山嵐と名前を出さないにしろ、あれほど推測できる謎を出しておきながら、今さらその謎を解くのが迷惑だとは、教頭とは思えない無責任さだ。本来なら、俺が山嵐と戦争を始めている最中に堂々と俺の味方をするべきだ。それこそが一校の教頭であり、赤シャツを着ている意味があるというものだ。
「うん、そうだな。君は乱暴で、あの下宿で困っているんだ。どんなに下宿の女房でも、下女とは違うよ。足を出して拭かせるなんて、威張りすぎだよ。」
「俺が、いつ下宿の女房に足を拭かせたんだ?」
「拭かせたかどうかは知らないけど、とにかく向こうでは君に困っているんだ。下宿料の十円や十五円は、一枚の絵を売ればすぐに浮いてくるって言ってたよ。」
「面白いことを言う奴だな。だったら、なぜ置いたんだ?」
「なぜ置いたか、僕は知らない。置くことは置いたんだけど、もう嫌になったんだから、出て行けと言うんだろう。君、出て行け。」
「当然だ。頼んでくれと手を合わせても、居るものか。そもそも、そんなことを言うような場所に紹介する君自身が無礼だ。」
「俺が無礼か、君が大人しくないんだか、どっちかだろう。」
山嵐も俺に劣らぬ気性を持っているから、負けず嫌いな大きな声を出す。休憩室にいた連中は何事が始まったのかと思って、みんな俺と山嵐の方を見て、顎を長くしてぼんやりしている。俺は、特に恥ずかしいことをした覚えはないから、立ち上がりながら部屋中を一通り見回した。みんなが驚いている中、野田だけは面白そうに笑っていた。俺の大きな目が、お前も喧嘩をするつもりかという意味で、野田の顔を見つめた時、野田は突然真面目な顔をして、大いに驚いた。少し怖かったと見える。そのうちチャイムが鳴る。山嵐も俺も喧嘩を中止して教室へ出た。
午後は、昨夜俺に対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。会議というものは生まれて初めてだから、全く様子が分からないが、職員が集まって勝手に説を立て、それを校長が適当にまとめるのだろう。まとめるというのは、黒白の決しかねる事柄について言うべき言葉だ。この場合のような、誰が見ても不都合としか思われない事件に会議をするのは、暇つぶしにすぎない。誰が何と解釈したって異説が出るはずがない。こんな明白なことは、即座に校長が処分してしまえばいいのに。随分決断のない事だ。校長というものが、これならば、何の事はない、煮え切らない愚図の異名だ。
会議室は校長室の隣にある細長い部屋で、普段は食堂の代理を勤める。黒い皮で張った椅子が二十脚ばかり、長いテーブルの周囲に並んで、ちょっと神田の洋食屋ぐらいの格だ。そのテーブルの端に校長が座って、校長の隣に赤シャツが構える。あとは勝手次第に席に着くのだが、体育の教師だけはいつも席末に謙遜するという話だ。俺は様子が分からないから、博物の教師と漢学の教師の間に入り込んだ。向こうを見ると、山嵐と野田が並んでいる。
野田の顔はどう考えても劣等だ。喧嘩はしても、山嵐の方が遥かに趣がある。親父の葬式の時、小日向の養源寺の座敷にかかっていた掛け物は、この顔によく似ている。坊主に聞いてみたら、韋駄天という怪物だそうだ。今日は怒っているから、目をぐるぐる回しながら、時々俺の方を見る。そんなことで威嚇されてたまるもんかと、俺も負けない気で、やっぱり目をぐりつかせて、山嵐を睨んでやった。俺の目は格好はよくないが、大きさにおいては大抵の人には負けない。あなたは目が大きいから役者になると、きっと似合いますと清がよく言ったくらいだ。
「もう大抵揃いでしょうか」と校長が言うと、書記の川村というのが一つ二つと頭数を勘定してみる。一人足りない。一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。唐茄子の浦成君が来ていない。俺と浦成君とは運命的な縁があるのか知らないが、この人の顔を見て以来、どうしても忘れられない。休憩室に来れば、すぐに浦成君が目に付くし、途中を歩いていても、浦成先生の様子が心に浮かぶ。温泉へ行くと、浦成君が時々青い顔をして湯壺の中に膨れている。挨拶をすると、へえと恐縮して頭を下げるから気の毒になる。学校へ出て浦成君ほど大人しい人はいない。めったに笑ったこともないが、余計な口をきいたこともない。俺は君子という言葉を書物で知っているが、これは辞書にあるばかりで、生きているものではないと思っていた。しかし、浦成君に会ってから初めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
このくらい関係の深い人のことだから、会議室に入るや否や、浦成君の居ないのにすぐ気がついた。実を言うと、この男の隣にでも座ろうかと、ひそかに目標にして来たくらいだ。校長は「もうやがて見えるでしょう」と、自分の前にある紫の袱紗包みをほどいて、こんにゃく版のようなものを読んでいる。赤シャツは琥珀のパイプを絹ハンカチで磨き始めた。この男はこれが道楽である。赤シャツの相当なところだろう。他の連中は隣り同士で何だかささやき合っている。手持無沙汰なのは鉛筆の尻に着いているゴムの頭で、テーブルの上へしきりに何か書いている。野田は時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向応じない。ただ「うん」とか「ああ」と言うばかりで、時々怖い目をして、俺の方を見る。俺も負けずに睨み返す。
待ちに待った浦成君が気の毒そうに入ってきて、「少々用事がありまして、遅刻しました」と丁寧に狸に挨拶した。
「では会議を開きます」と狸はまず書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。見ると、最初が処分の件、次が生徒の取り締まりの件、その他二三ヶ条である。
狸は例の通り大げさに、教育の生霊という名のもとに、こんな意味のことを述べた。「学校の職員や生徒に過失があるのは、みんな自分の寡徳のせいで、何か事件がある度に、自分はこれで校長が務まるのかと、ひそかに恥ずかしい気持ちになるが、不幸にして今回もまたこんな騒動を引き起こしたのは、深く皆さんに向かって謝罪しなければならない。
しかし、ひとたび起こった以上は仕方がない、どうにか処分をしなければならない。事実はすでに皆さんのご承知の通りですから、善後策について遠慮なくお述べください。」
俺は校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのというものは、偉いことを言うもんだと感心した。
こう校長が何もかも責任を受けて、自分の罪だとか、不徳だとか言うくらいなら、生徒を処分するのはやめにして、自分から先に免職になったら、よさそうなもんだ。そうすれば、こんな面倒な会議など開く必要もなくなる訳だ。
第一、常識から言っても分かっている。俺が大人しく宿直をする。生徒が乱暴をする。悪いのは校長でもなければ、俺でもない、生徒だけに極まっている。
もし山嵐が扇動したとすれば、生徒と山嵐を退治すればそれでたくさんだ。人の尻を自分で背負い込んで、俺の尻だ、俺の尻だと吹き散らす奴が、どこの国にあるもんか。狸でなくっちゃ出来る芸当じゃない。
彼はこんな条理に適わない議論を吐いて、得意気に一同を見回した。ところが、誰も口を開く者がない。
博物の教師は第一教場の屋根にカラスが止まっているのを眺めている。漢学の先生は蒟蒻版を畳んだり、広げたりしている。山嵐はまだ俺の顔を睨んでいる。
会議というものが、こんな馬鹿げたものなら、欠席して昼寝でもしている方がましだ。
俺はじれったくなったから、一番大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か言い出したから、やめにした。
見るとパイプをしまって、縞のある絹ハンカチで顔を拭きながら、何か言っている。あのハンカチはきっとマドンナから巻き上げたに違いない。男は白い麻を使うもんだ。
「私も寄宿生の乱暴を聞いては、はなはだ教頭として不行届であり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深く恥じるのであります。
こういう事は、何か欠陥があると起こるもので、事件そのものを見ると何だか生徒だけが悪いようであるが、その真相を極めると責任はかえって学校にあるかも知れない。
だから表面上に現れたところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のためによくないかとも思われます。
かつ、少年は血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪戯をやる事はないとも限らない。
でも、とより処分法は校長のお考えにある事だから、私の容喙する限りではないが、どうかその辺をご斟酌になって、なるべく寛大なお取計らいを願いたいと思います。」
なるほど、狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒が暴れるのは、生徒が悪いのではなく、教師が悪いのだと公言している。気狂いが人の頭を殴るのは、殴られた人に原因があるから、気狂いが殴るのだそうだ。ありがたい話だ。活気に満ちて困るなら、運動場へ出て相撲でも取ればいい。半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。この様子では寝首をかかれても、半ば無意識だと言って許すつもりだろう。
俺はこう考え、何か言おうかなと考えてみたが、言うなら人を驚かすように滔々と述べなければつまらない。俺の癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行き詰まってしまう。狸でも赤シャツでも、人物から言うと俺よりも劣っているが、弁舌はなかなか達者だから、まずい事をしゃべって足元を見られちゃ面白くない。ちょっと腹案を作ってみようと、胸の中で文章を組み立てていると、前にいた野田が突然起立したのには驚いた。野田の癖に意見を述べるなんて、生意気だ。野田は例のへらへら調でこう言った。
「実に今回のバッタ事件及び咄喊事件は、我々心ある職員をして、ひそかに我が校の将来に危惧の念を抱かしむるに足る珍事でありまして、我々職員たるものはこの際奮って自ら省みて、全校の風紀を振興しなければなりません。それで、ただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮に中当たった剴切なお考えで、私は徹頭徹尾賛成致します。どうかなるべく寛大のご処分を仰ぎたいと思います。」
野田の言う事は言語はあるが意味がない。漢語を並べるだけで、訳が分からない。分かったのは「徹頭徹尾賛成致します」という言葉だけだ。俺は野田の言う意味は分からないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに立ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と言ったが、あとが急に出て来ない。「……そんな頓珍漢な、処分は大嫌いです」とつけたら、職員が一同笑い出した。「一体生徒が全然悪いです。
どうしても謝らせなくっちゃ、癖になります。退校させても構いません。……何だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」と言って着席した。すると右隣にいる博物がこう言った。「生徒が悪い事も悪いが、あまり厳重な罰などをすると、かえって反動を起こしていけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃる通り、寛大な方に賛成します。」と弱い事を言った。左隣の漢学も穏便説に賛成と言った。歴史も教頭と同説だと言った。忌々しい、大抵のものは赤シャツ党だ。こんな連中が寄り合って学校を立てていれば世話はない。
俺は生徒を謝らせるか、辞職するか、二つのうち一つに極めているんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする覚悟でいた。どうせ、こんな手合いを弁口で屈服させる手際はなし、させたところでいつまでご交際を願うのは、こっちでご免だ。学校にいないとすれば、どうなったって構うもんか。また何か言うと笑うに違いない。誰が言うもんかと澄ましていた。
すると今まで黙って聞いていた山嵐が奮然と立ち上がった。
野郎また赤シャツ賛成の意を表すな。
どうせ喧嘩になるのだから、勝手にしろと思いながら見ていると、山嵐はガラス窓を振るわせるような声でこう言った。
「私は教頭とその他皆さんのお説には全然不同意であります。
この事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏を軽侮してこれを翻弄しようとした所為とより他には認められないのであります。
教頭はその源因を教師の人物にお求めのようですが、失礼ながらそれは失言かと思います。
某氏が宿直にあたられたのは着後早々のことで、まだ生徒に接せられてから二十日に満たない頃であります。
この短い二十日間において、生徒は君の学問と人物を評価する余地がないのです。
軽侮されるべき理由があれば、軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌を加える理由もありましょうが、
何らの源因もないのに新来の先生を愚弄するような軽薄な生徒を寛容にすることは、学校の威信に関わることだと思います。
教育の精神は単に学問を授けるばかりではなく、高尚で正直な精神を鼓舞し、
同時に野卑で軽薄な悪風を掃蕩することにあると思います。
もし反動が恐ろしいの、騒動が大きくなるのと小心なことを言った日には、この弊風はいつ矯正できるか知れません。
かかる弊風を杜絶するためにこそ、我々はこの学校に職を奉じているのです。
これを見逃すくらいなら、始めから教師にならない方がいいと思います。
私は以上の理由で寄宿生一同を厳罰に処する上に、
当該教師の面前において公に謝罪の意を表せしむるのを至当の所置と心得ます。」
と言いながら、どんと腰を下ろした。一同は黙って何にも言わない。
赤シャツはまたパイプを拭き始めた。俺は何だか非常に嬉しかった。
俺の言おうと思うところを、俺の代わりに山嵐がすっかり言ってくれたようなものだ。
俺はこういう単純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いに感謝の顔をもって、
腰を下ろした山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん顔をしている。
しばらくして山嵐はまた立ち上がった。
「ただ今ちょっと失念して言い落としましたから、申します。
当夜の宿直員は宿直中に外出して温泉に行かれたようでありますが、あれはもっての外の事と考えます。
いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、責める者のないのを幸いに、
場所もあろうに温泉などに入湯に行くなどというのは大きな失体である。
生徒は生徒として、この点については校長から特に責任者にご注意あらんことを希望します。」
不思議な奴だ。褒めたと思ったら、すぐに人の失策を暴露している。
俺は何の気もなく、前の宿直が外出したことを知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまった。
なるほどそう言われてみると、これは俺が悪かった。攻撃されても仕方がない。
そこで俺はまた立って「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全く悪い。謝ります」と言って座ったら、一同がまた笑い出した。
俺が何か言いさえすれば笑う。つまらない奴らだ。
お前たちこれほど自分の悪い事を公に認められるか、出来ないから笑うんだろう。
それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと言った。
ついでだからその結果を言うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、俺の前へ出て謝罪をした。
謝罪をしなければその時辞職して帰るところだったが、なまじい俺の言う通りになったので、とうとう大変な事になってしまった。
それは後から話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号して、こんな事を言った。
生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならない。その一つの手段として、教師はなるべく飲食店などに出入りしないことにしたい。
もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば蕎麦屋だの、団子屋だの――と言いかけたらまた一同が笑った。
野田が山嵐を見て天ぷらと言って目配せをしたが、山嵐は取り合わなかった。いい気味だ。
俺は脳が悪いから、狸の言うことなんか、よく分からないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、俺みたいな食いしん坊には到底出来ないと思った。
それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して雇うがいい。
黙って辞令を下げて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪な布令を出すのは、俺のような外に道楽のないものにとっては大変な打撃だ。
すると赤シャツがまた口を出した。「元来中学の教師なぞは社会の上流に位置するものだからして、単に物質的な快楽ばかり求めるべきものでない。
その方に耽ると、つい品性に悪い影響を及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽がないと、田舎に来て狭い土地では到底暮らせるものではない。
それで釣りに行くとか、文学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯楽を求めなくてはいけない……」
黙って聞いていると勝手な熱を吹く。
沖へ行って肥料を釣ったり、ゴルキがロシアの文学者だったり、馴染みの芸者が松の木の下に立ったり、古池へ蛙が飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、
天ぷらを食って団子を飲み込むのも精神的娯楽だ。そんな下らない娯楽を授けるより、赤シャツの洗濯でもするがいい。
あんまり腹が立ったから「マドンナに会うのも精神的娯楽ですか」と聞いてやった。
すると今度は誰も笑わない。妙な顔をして互いに眼と眼を見合せている。
赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。それ見ろ。利いたろう。
ただ気の毒だったのは浦成君で、俺がこう言ったら青い顔をますます青くした。
𝑅𝑒𝓁𝒶𝓍 𝒮𝓉𝑜𝓇𝒾𝑒𝓈𝒯𝒱
17,608文字
続く:7~
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