Jekyll & Hyde:戸口の話~ハイド氏の捜索
ジキルとハイド:Jekyll & Hyde
ロバート・ルイス・スティーブンソン:Stevenson Robert Louis
現代語訳:Relax Stories TV
はじめに
ジキル博士とハイド氏はロバート・ルイス・スティーヴンソンによって1886年に発表された怪奇小説です。この物語は善良な医師であるヘンリー・ジキル博士と彼の中に潜む邪悪な人格エドワード・ハイドの二重生活を描いています。ジキル博士は自らの欲望を抑えきれず薬を使ってハイドという別人格を生み出しますがその結果彼の人生は破滅へと向かっていきます。この小説は人間の二面性や欲望の危険性を鋭く描き出しており読者に深い洞察を与えます。
人生の教訓
1. 人間の二面性
誰しもが持つ善と悪の二面性を認識しそれをコントロールすることの重要性を教えてくれます。ジキル博士のように自分の中の悪を抑えきれないと破滅を招くことになります
2. 欲望の危険性
欲望に屈すると自分だけでなく周囲の人々にも悪影響を及ぼすことがあります。ジキル博士がハイドを生み出したことで多くの人々が苦しむことになりました
3. 自己制御の重要性
自己制御ができないとどんなに善良な人でも悪に染まる可能性があることを示しています。ジキル博士は自己制御を失った結果ハイドという邪悪な存在を生み出してしまいました
4. 倫理と科学のバランス
科学の力を使う際には倫理的な視点を忘れないことが重要です。ジキル博士は科学の力を過信し倫理を無視した結果悲劇を招きました
この小説は現代においても多くの教訓を与えてくれる名作です。ぜひ一度読んでみてください。
キャサリン・ディ・マットスに
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神が結んだ絆は解かぬがよい。
わたしたちはやはりあのヒースと風の子でありたい。
ふるさとは遠く離れていても、それもまたあなたとわたしのためだ。
エニシダが、かの北国に美しく咲き匂うのは。
🍚第一章 戸口の話
弁護士のアッタスン氏は、いかつい顔をした男で、微笑むことは決してありませんでした。話す時は冷たく、口数も少なく、話し下手でした。感情をあまり外に出さなかったのです。彼は痩せていて、背が高く、無愛想で、陰気でしたが、それでもなんとなく人々に好かれるところがありました。気楽な集まりなどでは、特に口に合ったお酒が出ると、優しさが彼の目から輝いていました。実際、それは彼の話の中には決して出てこないものでした。
しかし、食後の顔の無言のシンボルであるその目に現れ、また、普段の行動の中には、もっと頻繁に、もっと明確に、現れていました。彼は自分に対しては厳格で、一人の時にはジンを飲み、ワインを我慢しました。劇場が好きなのに、20年もの間、劇場に足を運んだことはありませんでした。しかし他人にはとても寛大で、人々が元気に遊び回るのを、まるで羨ましそうに、驚嘆することもありました。
そして、彼らがどんな窮地に陥っている場合でも、非難するよりは助けることを好みました。「私はカインの精神が好きだよ、」と、彼はよくこんな奇妙な言い方をしました。「兄弟が勝手に落ち込んでいくのを見ているだけさ。」こんな具合だから、堕落していく人々には最後まで立派な知人となり、良い影響を与え続けるような立場に立つことが多かった。そして、そういう人々に対しても、彼らが彼の事務所に出入りしている限り、全く態度を変えることはありませんでした。
もちろん、こういう芸当はアッタスン氏にとっては何でもないことでした。というのは、何しろ感情を表さない男だったし、その友人関係でさえも同じような人の良い寛大さに基づいているようでした。ただ偶然にできた出来合いの友人だけで満足しているのは内気な人間の特徴ですが、この弁護士の場合もそうでした。彼の友人と言えば、血縁の者か、でなければずっと長い間の知り合いでした。
彼の愛情は、常春藤のように、時間と共に成長したもので、相手が友人として適当だというわけではありませんでした。彼の遠縁で、有名な粋人であるリチャード・エンフィールド氏との友情も、もちろんそうして出来たものでした。この二人がお互いに何を認めることができたのか、あるいはどんな共通の話題を見つけることができたのかということは、多くの人々にとって解きがたい難問でした。
日曜日に二人が散歩しているのに出会った人たちの話によると、二人は口も利かず、ひどくつまらなさそうな顔付きをしていて、誰か知人の姿を見るといかにもほっとしたように声をかけるのが常だということでした。そのくせ、その二人はこの日曜の散歩をとても大事にして、毎週の一番の大切なものと考え、それを欠かさずに楽しむためには、いろんな遊びをやめたばかりではなく、しなければならない用事までも放り投げたのでした。
そんな散歩をしていたある時のこと、二人が何気なく街の賑やかな地域の横丁を通りかかったことがありました。その横丁は狭くて、まあ静かな方でしたが、それでも日曜以外の日には商売が繁盛していました。そこに住んでいる商人たちはみんな景気が良さそうでした。そして、みんなは競ってその上にも景気を良くしようと思い、儲けの余りを惜しげもなく使って店を飾り立てました。
だから、店々は、まるでにこやかな女売り子の行列のように、客を招くような様子で道の両側に並んでいました。日曜日には、いつもの華やかな美しさも覆われ、人通りも少なかったが、それでもその横丁は、くすんだその周辺と比べると、森の中の火事のように輝いていました。それに鎧戸は塗り替えたばかりで、真鍮の標札は十分に磨き立ててあり、街全体の調子がさっぱりしていて派手なので、すぐに通行人の目を引き、喜ばせました。
東へ向かって歩いていて、左手の一つの街角から二軒目のところに、路地の入口があり、街並みは途切れていました。そしてちょうどそこに、気味の悪い一軒の建物が切妻を街路に突き出していました。その建物は二階建てで、一階には戸口が一つだけ、二階は色のあせた壁だけで、窓は一つもなく、どこを見ても長い間汚れ放題にされていた跡がありました。
ベルもノッカーも取り付けられていない入口の戸は、変色していました。浮浪者はその凹んだ戸口にすりすりと入り込んで戸の板でマッチを擦り、子供たちは踏み段の上で店を張って遊び、学校の生徒は形状を作り出すためにナイフの切れ味を試したりしていました。そしてもう三十年近くの間、誰一人として出てきて、そういう勝手な客たちを追い払ったり、彼らが荒らした跡を修繕したりする者はいませんでした。
エンフィールド氏と弁護士は横街の反対側を歩いていましたが、路地の入口の真向かいまで来ると、エンフィールド氏がステッキを上げて指しました。
「あの戸口に気がついたことがありますか?」と彼は尋ねました。そして、相手がうなずくと、彼は言い足しました、「あの戸口を見ると、私は奇妙な話を思い出すのです。」
「なるほど!」とアッタスン氏は言いましたが、少し声の調子が変わっていました。「それで、それはどんなことなのですか?」
「ええ、それはこうなんです、」とエンフィールド氏が答えました。「私はある遠いところから家へ帰る途中でした。暗い冬の朝の三時頃のことです。その途中は、街灯以外には全く何も見えないところでした。どの通りも人はみんな寝ていて、どの通りも何かの行列を待っているように明かりがついていて、それでも教会のようにがらんとしていました。私は、人がじっと耳を澄まして警官の姿でも現れればいいと思い始める、あの気持ちになってきました。
と突然、二人の人影が見えたのです。一人は小柄な男で、足早に東の方へと歩いていきました。もう一人は8つか9つくらいの女の子で、十字路を一生懸命に走ってきました。そして、その二人は当然のことながら街角でぶつかってしまいました。
するとその時恐ろしいことが起こったのです。その男が子供の体を平気で踏みつけて、子供が地面で泣き叫んでいるのをそのままにして行ってしまうのです。
聞いただけでは何でもないようですが、見ていては地獄のようなことでした。それは人間の仕業ではない。憎らしい鬼か何かのような仕業でした。私は「こら待て」と叫んで、駆け出して行き、その男の襟をつかんで、元のところまで連れ戻しました。
そこには泣き叫んでいる子供の周りにもう人だかりができていました。その男はまるで平然としていて何の手向けもしませんでしたが、ただ私を一目見た眼付きの気持ちの悪さときたら、私は駆け足をした時のようにびっしょりと汗が出ました。
出てきた人たちは女の子の家の者で、すぐに医者もやってきました。子供はさっきその医者を呼びに行ったのでした。ところで、医者の話では、子供は大したこともなく、ただ怖がったのだということでした。で、あなたはこれでこの話は終わったと思ったかもしれません。ところが一つ奇妙なことがあったのです。
私はその男を一目見た時から、とても嫌いでした。子供の家の人々もやはりそうでしたが、それはもちろん当然のことでしょう。しかし、私が驚いたのは医者の場合でした。その男は世間一般の平凡な医者で、特に年寄りでも若者でもなく、特別に変わった様子もなく、ひどいエディンバラ訛りがあり、鈍感な男でした。それでも、その男もやはり私たち他の人々と同じでした。
私が捕まえている男を見るたびに、その医者は彼を殺してでもやりたいという気持ちになって胸がむかむかし、顔色が青ざめるのが、私にはわかりました。私が心の中で思っていることが医者にわかったように、医者が心の中で思っていることも私にはわかりました。でも、殺すなんてできることではないので、私たちはその次にできるだけのことをしました。私たちはその男に言いました。
私たちはこの事を世間に公表して、あなたの名前がロンドンの端から端まで噂の的になるようにしてやることができるし、またそうしてやるつもりだ。もし君に友人や信用があるなら、私たちは必ずそれをなくさせてやる、とね。そして、私たちは猛烈に非難している間じゅう、女性たちをできるだけ彼に近づけないようにしました。何しろ女性たちは怒り狂っていたので、あんなに憎らしそうな顔の集まりを私は今までに一度も見たことがありません。
しかも、彼はその真ん中に立って、むっとした、皮肉っぽい冷たい態度をして、
――怖がっていることは私にはわかったが、
――しかし、まるで悪魔のように平然と押し通していました。彼はこう言いました。
「もし君たちがこの事を利用しようというのなら、もちろん僕はどうにも仕方がない。紳士なら誰だってトラブルは避けたいのだからね、」とね。「金額を言ってくれ、」と彼は言いました。そこで、私たちは子供の家の人々のために彼から百ポンド搾り取ることにしました。
彼は明らかに嫌がって頑張りたかったようですが、私たちみんなの様子には何となく危害でも加えそうな気勢があったので、とうとう折れて出しました。次はそのお金を受け取ることですが、彼がどこへ私たちを連れて行ったと思います? なんと、それがあの戸口のところでした。――鍵をすっと取り出して、中へ入り、やがて、金貨でおおよそ十ポンドばかりと、残額をクーツ銀行宛の小切手にしたものを持って出てきました。
その小切手は持参人払いに振り出されたもので、ある名前が署名してありました。その名前がこの話の要点の一つなのですが、その名前は言えません。しかし、それはともかく世間によく知られていて、新聞などにもよく出る名前なのです。金額は大したものです。
しかし、その署名は、それが偽筆でさえなければ、それ以上の額でも支払うことができるものでした。私はその男にずけずけと言いました。何もかも疑わしいようだ。まともな世間では、朝の四時なんて時刻に穴蔵みたいなところに入って行って、百ポンドにも近い大金を他人の小切手で持って出て来る者なんていないよ、とね。
彼は全く平気な様子で皮肉っぽく笑っていました。「安心してください。私は銀行が開くまで皆さんと一緒にいて、その小切手を自分で現金に替えてやるから、」と言うのです。そこで私たちはみんなで出かけました。医者と、子供の父親と、彼と、私とですね。
そして私の部屋で夜明けまで過ごし、翌日、朝食を済ませると、一緒に銀行へ行きました。私は自分でその小切手を差し出して、これは偽造だと思うが、と言いました。しかし、そんなことは全くありませんでした。その小切手は本物だったのです。
「ちぇっ!」とアッタスン氏が言いました。
「あなたも私と同感なんですね、」とエンフィールド氏が言いました。「そうですよ、ひどい話です。何しろ彼は誰一人として相手にならないような奴で、本当に憎らしい男なんですからね。それから、その小切手を振り出した人というのは紳士の典型とも言える人だし、それに有名でもあるし、しかももっと困ったことには、いわゆる慈善家の一人なんです。
これはきっと、ゆすりでしょうね。立派な人間が若い時の道楽か何かを種にされて目の玉の飛び出るほどの額をねだり取られているのでしょうよ。だから、ゆすりの家と私はあの家のことを言っているのです。でも、それだけでは全てを説明したことにはならないんですがね、」と彼は言い足しました。そしてそう言い終えると物思いに沈んでしまいました。
その物思いから、彼はアッタスン氏の突然の質問で呼び覚まされました。「それで、小切手の振り出し人がそこに住んでいるかどうかは知らないんですか?」
「そうかもしれませんね。」とエンフィールド氏は答えました。「しかし、私は偶然その人の住所を覚えていました。その人は何とかいう広辻スクエアに住んでいるのです。」
「それで、人に尋ねてみたことはないのですか?その戸口の家のことを?」とアッタスン氏が言いました。
「ええ、ありません。ちょっと遠慮したんです。」という返事でした。「もともと私は人のことを詮索するのが嫌いなんです。そういうことは何だか最後の審判みたいでね。何か詮索を始めるとしますね。それは石を転がすようなものですよ。こちらは丘の頂上にじっと座っている。
すると石の方はどんどん転がって行って、他の石をいくつも転がす。そして、まるで思いもよらぬどこかの人の良いおじいさんが自分の裏庭で石に頭を打たれて死に、そのためにその家族の者は名前を変えなければならなくなったりしますからね。いいや、私はね、これを自分の主義にしているのですよ。物事が変に思われれば思われるだけ、それだけ益々詮索しない、というのをね。」
「それはなかなか良い主義だ。」と弁護士が言いました。
「だが私は自分だけであの場所を調べてみました、」とエンフィールド氏が言い続けました。「どうもあそこは人が住んでいる家とはとても思えませんね。他に戸口はなく、あの戸口にも、例の事件の男が極めて稀に出入りする以外は、誰一人として出入りする者がいません。
路地側の二階には窓が三つあるが、一階には一つもない。窓はいつも閉めてあるが、しかし綺麗になっています。それから、煙突が一本あって、大抵煙が出ていること。だから、誰かがあそこに住んでいるには違いありません。でもそれも大して確かなことではないんです。何しろあの路地のあたりは建物がぎっしり建て込んでいて、どこが家の区切りかよくわからないんですから。」
二人はまた暫くは黙ったまま歩いていました。それから「エンフィールド君、」とアッタスン氏が言いました。「君のその主義は良い主義だよ。」
「ええ、私もそう思っています。」とエンフィールドが答えました。
「でも、それにしても、」と弁護士は言葉を続けました。「聞きたいことが一つある。私は子供を踏みつけたその男の名前を聞きたいのだが。」
「そうですね。」とエンフィールド氏が言いました。「それは言っても別に差し支えないでしょうね。その人はハイドという名前でしたよ。」
「ふむ、」とアッタスン氏が言いました。「その男は見たところどんな男なのですか?」
「その人の顔立ちを説明するのは簡単ではありません。その様子には何か変なところがありました。何となく不快で、何となくとても憎らしい感じがしました。私はこれまでにあんなに嫌な人間を見たことがありませんが、それでいてそれがなぜかよくわからないのです。
その男はどこか異常に違いありません。異常という感じを強く人に与えます。しかし、どこがそうかということは私にもはっきり言えません。とても奇妙な顔立ちでしたが、それでいて何一つ普通から外れたところを挙げることも実際できません。いや本当に、私にはとても説明がつきません。私にはその男の顔立ちを説明できません。といって覚えていないわけではありません。なぜなら今でも私はその男の顔を思い浮かべることができるからです。」
アッタスン氏はまた黙って少し歩いていましたが、確かに何か考え込んでいました。とうとう「その男が鍵を使ったというのは確かなんですか?」と彼は尋ねました。
「一体あなたは……」とエンフィールドは驚いて言いかけました。
「うん、わかっているよ、」とアッタスンが言いました。「こう言うと変に思われるかもしれないが、実は、私がもう一方の人の名前を聞かないのは、私がとうにそれを知っているからなんだ。ねえ、リチャード、君の話はひしひしと響いたよ。もし今の話にどこか不正確な点があったら、訂正した方がいいよ。」
「そんならそうと言ってくれればいいのに、」と相手はちょっと不機嫌な様子で答えました。「しかし、私は学者的にもいいくらいに正確に話したのです。その男は鍵を持っていました。それどころか、今でも持っていますよ。一週間と経たないうちに、彼がそれを使っているのを私は見たのです。」
アッタスン氏は深い溜息をついたが、一言も言いませんでした。すると若者の方が続けてまた言い始めました。「何も言うものではないという教訓をまた一つ得ましたよ、」と彼は言いました。「自分のおしゃべりが恥ずかしくなりました。このことはもう二度と触れないという約束をしましょう。」
「よろしいとも、」と弁護士は言いました。「約束しよう、リチャード。」
🍚今夜は、第二章、ハイド氏の捜索
その晩、アッタスン氏は暗い気分で一人暮らしの家に帰り、食欲もなく夕食についた。普段、日曜日などには、食事が終わると暖炉のそばに座り、難解な神学の本を一冊机に置いて読み始める。近くの教会の時計が十二時を打つと、厳粛に感謝の祈りを捧げて床につくのが、彼の習慣だった。
しかし、この夜は違った。食卓が片付けられるとすぐに、彼はろうそくを持ち上げ、自分の事務室に入った。そこで金庫を開け、一番奥から「ジーキル博士遺言書」と書かれた封筒を取り出した。眉間にしわを寄せながら、その内容をじっくりと読んだ。
遺言書は全文が本人の手書きだった。それは、アッタスン氏がそれを保管していたものの、作成には一切の助力を拒んでいたからだ。その遺言書には、医学博士、民法学博士、法学博士、王立科学協会会員などの肩書を持つヘンリー・ジーキルが死亡した場合、彼の全財産は「友人であり恩人であるエドワード・ハイドの手に渡ることが規定されていた。
しかも、ジーキル博士が「三カ月以上失踪したり、理由不明で不在になった場合、エドワード・ハイドは直ちにヘンリー・ジーキルの後を継ぎ、家族に少額の支払いをする以外には何の負担も義務も負わないことが規定されていた。
この証書は長い間、弁護士の不快感の種であった。それは、弁護士として、また人生の穏健な慣習を愛する者としての彼を不快にさせた。彼にとって、突飛なことは無謀なことだった。
しかし、今までは、彼がそのハイド氏について何も知らないために、彼の憤慨が増す一方だった。それが今や急に一変し、その人物のことを知っているために、彼の憤慨が増す一方だった。その名前だけを知っていて、それ以上のことを何も知らなかった時でも、それは十分に不都合だった。その名前が数々の嫌な特性を持つようになると、ますます不都合になった。
そして、長い間彼の視界を遮っていた変わりやすい朦朧とした霧の中から、突如として悪魔の姿がはっきりと現れた。「これは気が狂ったことだと思っていた」と、彼は不快な書類を金庫の元の場所にしまい込みながら言った。「しかし、今度は何か悪事ではないかという気がしてきた。」
彼はそう言って蝋燭を吹き消し、外套を着て、医学の牙城とも言われるキャヴェンディッシュ広街スクエアへと出かけた。そこには、彼の友人である著名なラニョン博士が邸宅を構え、患者たちに対応していた。「誰か知っている人がいるとすれば、それはラニョンだろうと彼は考えた。
彼を見知っている召使いが喜んで彼を迎え入れた。彼は待たされることなく、すぐに食堂へと案内された。そこにはラニョン博士が一人でワインを飲んでいた。元気で健康で、快活な赤ら顔の紳士で、もしゃもしゃした髪の毛はまだそういう年齢でもないのに白く、動作は大げさでてきぱきしていた。
アッタスン氏を見ると、椅子から飛び立って両手を差し出して歓迎した。この愛想の良さはこの人の癖で、少し芝居じみて見えたが、しかし真心から出ているのだった。というのも、この二人は古くからの友人で、小学校から大学までの同窓であり、お互いに十分な自尊心があり、相手を尊敬し、そして必ずしもそうとは限らないが、お互いに交際することをとても楽しみにしている人たちだったからだ。
ちょっとした雑談の後で、弁護士はひどく気になっている、例の問題に話を向けた。「ねえ、ラニョン、君と僕とはヘンリー・ジーキルの一番古くからの友人だったよね?」と彼は言った。
「その友人もお互いにもっと若かったらね」とラニョン博士が笑って言った。「でも君の言う通りだろうと思う。でも、それがどうかしたの? 僕は最近全然彼に会ってないよ。」
「なるほど!」とアッタスンが言った。「君たちは共通の関心で結ばれていると僕は思ってたんだ。」
「そうだったんだよ」とラニョン博士が返事した。「でも、もう十年以上も前から、ヘンリー・ジーキルはあまり突飛になってきて、僕には我慢できなくなったんだ。彼は変になりかけてきたんだ、精神的にね。
もちろん僕は昔の友情から今でも彼のことを気にかけてはいるけど、最近はずっとあの男にめったに会ってない。あんな非科学的なでたらめばかり言われてはと」博士は突然顔を真っ赤にして言い始めた。「デーモンとピシアスだって仲が悪くなるよ。」
「二人は何か学問上のことで意見が違っただけなんだな、」と彼は考えた。
そして、もともと学問的熱情などを持っていない(財産譲渡証書作成のことだけは別であるが)男なので、「ただそれだけのことさ!」とつけ加えさえした。
彼はしばらく友人の気がしずまるのを待って、尋ねようと思ってきた例の問題に近づいた。「君は彼が世話している――ハイドという男に会ったことがあるかね?」と彼は訊いた。
「ハイド?」とラニョンがきき返した。「いいや。そんな男は聞いたことがない。これまでにね。」
弁護士が大きな暗い寝床に持ち帰った知識はそれだけであった。その寝床で彼が寝つかれずにしきりに寝返りを打っているうちに、真夜中も過ぎてだんだんと明け方に近くなった。まっくら闇の中で考え悩み、いろいろな疑問に取巻かれて、思いまどった彼にとっては、くるしい一夜であった。
アッタスン氏の住居のすぐ近くにある教会の鐘が六時を打った。それでもまだ彼はその問題を考え続けていた。これまで、その問題は彼の知的な面だけに関わっていた。しかし、今では彼の想像力もそれに加わるようになった、というよりも、それに取り込まれてしまった。
そして彼がカーテンを下ろした部屋の真っ暗な夜の闇の中で、横になって寝返りを打ち続けていると、エンフィールド氏から聞いた話が、一連の幻灯の絵巻物となって彼の心の前を通り過ぎていった。
夜の都会を一面に照らしている街灯が現れる。次に足早に歩いていく一人の男の姿。次に医者のところから駆け戻ってくる子供の姿。それからその二人がぶつかり、人間の姿をした悪鬼が踏み倒して、その泣き叫ぶのを気にもかけずに通り過ぎていく。
それからまた、豪奢な邸宅の一室が見える。そこには彼の友人が眠っていて、夢を見ながら微笑んでいる。するとその部屋のドアが開かれ、ベッドのカーテンがさっと引き開けられ、眠っている友人が呼び起こされる。そして、見よ! その傍らに一人の男が立っている。その男は権力を与えられているので、そんな真夜中でも、友人は起き上がってその命令を聞かなければならないのだ。
この二つの場面に現われる男の姿が、夜通し弁護士の心につきまとった。そして、いつでも彼がうとうと眠りかけると、寝静まっている家々にその姿が一層忍びやかにすうっと入って来たり、または街灯のともった都会の広い迷路をその姿が一層速く、目まいがするほどにも速く駆け回り、街角という街角で女の子を踏みつぶして、泣き叫ぶままにして行ったりするのが、見えるのであった。
それなのに、その男には彼が見覚えのある顔というものがなかった。夢の中でさえ、その男には顔がなく、あったとしても、見ようとすると目の前で溶けてしまうのだった。
こんなわけで、弁護士の心の中に、本当のハイド氏の顔を見たいという異常に強い、まるで法外な好奇心が湧き上がり、どんどん大きくなってきたのだ。もし一度だけでもその男を見ることができたなら、大抵の不思議な事柄というものがよく調べてみればそうであるように、この不思議もはっきりして恐らくすっかりなくなってしまうだろう、と彼は考えた。
友人の奇妙なこのみ、または束縛(どちらに言ってもいいが)に対する理由、またあの遺言書の驚くべき文句に対する理由までも、わかるかもしれない。それに、少なくとも、それは見ておいて損のない顔であるだろう。慈悲心を持たない人間の顔であり、それを見ただけで、あの安っぽく感動しないエンフィールドの心に、忘れられない憎悪の念を起こさせたような顔だからだ。
その時からだった、アッタスン氏が商店の並んでいる例の横街にある例の戸口のあたりへ始終行くことになったのは。執務時間前の朝でも、事務が忙しくて暇が少ない昼時でも、霧のかかった都会の月光に照らされている夜でも、昼も夜も人通りの少ない時でも多い時でも、弁護士の姿は、その定めの見張り場に見つけられた。
「彼がハイド氏なら、自分はシーク氏になってやろうと彼は考えていた。
とうとう彼の忍耐は報われた。晴れ渡ったある夜のこと、空気は霜を結ぶほど寒く、街路は舞踏室の床のようにきれいで、街灯は、それを揺らす風もないので、光と影の模様をはっきりと描いていた。商店が閉まる十時になると、その横街はひどく寂しくなり、四方八方からロンドンの低いうなるような音が聞こえてくるが、大変静かになった。小さな音でも遠くまで聞こえた。
道路のどちら側でも、家々の中から漏れてくる音がはっきりと聞き取れた。そして通行人が近づいてくる足音は、その人がまだずっと遠くにいるうちからわかった。
アッタスン氏は、その見張り場に来てから数分たったころ、あの変な軽やかな足音が近づいてくるのに気がついた。毎夜見張りをしているうちに、彼は、たった一人の人間の足音でも、その人間がまだずっと遠くにいるうちに、市中の騒々しい騒ぎから、突然にはっきりと聞こえてくるあの奇妙な感じに、もうとっくに慣れていた。
しかし、この時ほど彼の注意が鋭く引きつけられたことは前には一度もなかった。それで、今度こそはどうもそうらしいという強い迷信的な予感を抱いて、彼は路地の入口へ身を隠した。
足音はどんどん近づいてきて、街の角を曲がると急に一層大きくなった。弁護士は、入口から覗くと、自分が対峙しなければならない人間の風体がすぐにわかった。小男で、地味な服装をしていて、そんなに遠くから見てさえも、その男の顔つきは、何となく、弁護士にはひどく気に入らなかった。
その男は近道をするために道路を横切って、まっすぐに戸口の方へと向かった。そして歩きながら、自分の家に近づく人のようにポケットから鍵を取り出した。
アッタスン氏は前に出て、通り過ぎようとするその男の肩にちょっと手を触れた。「ハイドさん、ですよね?」
ハイド氏ははっと息を吸い込みながら驚いた。しかし彼の驚きはほんの一瞬だった。そして彼は弁護士をまっすぐには見なかったが、大変落ち着いて答えた、「それは私の名前です。何のご用でしょうか?」
「あなたが入ろうとするところを見かけたものですからと弁護士は答えた。「私はジーキル博士の旧友で、――ゴーント街のアッタスンという者ですが、――あなたは私の名前を聞いたことがあるはずです。だから、ちょうどいいところでお会いしたから、通していただけるかもしれないと思ったのです。」
「あなたはジーキル博士には会えません。留守ですからとハイド氏は鍵の穴の塵を吹き飛ばしながら答えた。それから今度は突然、しかし、やはり顔を上げずに、「どうして私をご存じだったのですか?」と尋ねた。
「あなたに」とアッタスン氏が言った。「お願いがあるんですが?」
「どうぞ」と相手は答えた。「どんなことでしょう?」
「あなたの顔を見せていただけませんか?」と弁護士が尋ねた。
ハイド氏はためらっているようだった。しかし、やがて、何か急に思いついたように、挑戦的な態度で向き直った。そして二人は数秒間じっと互いに見つめ合った。「もうこれでまたお目にかかってもわかるでしょうとアッタスン氏が言った。「こうしておけば何かの役に立つかもしれません。」
「そうですとハイド氏が答えた。「我々は会えてよかった。それから、ついでに、私の住所も知っておいた方がいいでしょう。」そうして彼はソホーのある街の番地を教えた。
「おや!」とアッタスン氏は心の中で考えた、「この男もあの遺言書のことを考えていたのかな?」しかし彼は自分の気持ちを外に出さずに、ただその住所がわかったという返事に低い声を出しただけだった。
「で、今度は」と相手が言った。「どうしてあなたは私をご存じだったのですか?」
「これこれこういう人だと聞いていたから」という答えだった。
「誰から?」とハイド氏が尋ねた。
「私たちには共通の友人がいます」とアッタスン氏が答えた。
「共通の友人!それは誰ですか?」と少し声がかれたようにハイド氏が聞き返した。
「例えば、ジーキルと弁護士が答えた。
「あの男がそんなことを言ったことなんてありませんよ」とハイド氏は怒りを露わにして叫んだ。「あなたが嘘をつくとは思いませんでした。」
「まあまあ」とアッタスン氏が言った。「それは穏やかな言い方ではありませんね。」
相手は大きく唸ったが、それが獰猛な笑いに変わった。そして次の瞬間には、驚くべき速さで、戸口の錠を外して、家の中へと姿を消してしまった。
ハイド氏に置き去りにされた弁護士は、不安の化身のように、しばらく立ち尽くしていた。それからゆっくりと街を登り始めたが、数歩ごとに立ち止まり、途方に暮れている人のように額に手を当てた。
彼が歩きながらこんなに考え込んでいる問題は、難題の部類に入る問題だった。ハイド氏は色が青白くて小男だったし、どこと言って奇形なところはないが不具という印象を与えるし、不愉快な笑い方をするし、弁護士に対して臆病と大胆との混ざった一種の凶悪な態度で振る舞ったし、しゃがれた囁くような、幾らか切れ切れな声で物を言った。――これらすべての点は彼にとって不利であったが、しかし、これらを全部一緒にしても、アッタスン氏がハイド氏に抱いた、これまで経験したことのない憎悪、嫌悪、恐怖を説明することができなかった。
「他にまだ何かあるに違いない」と、この困惑した紳士は言った。「何と言っていいかわからないが、何かそれ以上のものが確かにあるのだ。本当に、あの男はどうも人間らしくないようだな! 何か洞窟人のようなところがあると言おうか? それとも、あの昔話のフェル博士のようなものだろうか?
それともまた、忌わしい霊魂から出る光が、あのように肉体から湧き出て、その肉体の形を変えたものなのだろうか? どうもそうらしいようだ。なぜなら、ああ気の毒なハリー・ジーキル、もし私がこれまで人間の顔に悪魔の相を見たことがあるとすれば、それは新しい友人のあの顔だ!」
その横街の角を曲がると、古風な立派な家の集まった一郭があったが、今では大部分はその高い身分から落ちぶれて、一階ずつに、また部屋部屋に区切って、地図版画師や、建築師や、いかがわしい代言人や、インチキ企業家など、あらゆる身分階級の人々に貸してあった。
しかし、角から二軒目の家だけが、今でもやはり、そのまま全体が一人の人が居住していた。玄関の灯り窓を除いて、今は闇に包まれてはいるけれども、いかにも富裕らしい趣のあるその家の戸口のところで、アッタスン氏は立ち止まって戸を叩いた。身なりの良い中年過ぎの召使が戸を開けた。
「ジーキル博士はお宅ですか、プール?」と弁護士が尋ねた。
「見て参りましょう」と、プールは言いながら、客を大きな天井の低い、居心地の良い広間に案内した。そこは床に板石が敷かれ、かっかと燃える、むき出しの暖炉で(田舎の屋敷風に暖められ、樫の高価な箪笥が備え付けられていた。「ここの暖炉のそばでお待ちいただけますか、旦那さま? それとも食堂に明かりをつけてさしあげましょうか?」
「ここで結構、ありがとう」と弁護士は言って、その高い暖炉囲いに近づいて、それにもたれかかった。今、彼が一人取り残されたこの広間は、彼の友人の博士の得意にしているお気に入りの部屋だった。そしてアッタスン自身もいつもは、そこをロンドン中で一番居心地の良い部屋だと言っていた。
しかし今夜は、彼は気味が悪くてならなかった。ハイドの顔が彼の記憶に重苦しくのしかかっていた。彼は(彼には滅多にないことだが)人生が厭わしく感じられた。そして、気が滅入っているので、彼は、磨き立ててある箪笥に映るちらちらする暖炉の光や、天井に不安そうに動く影にも、凶事の前兆を見るような気がした。
やがてプールが戻って来て、ジーキル博士が外出しているということを知らせた時、自分がほっとしたのを彼は恥ずかしく思った。
「私はハイドさんがあの元の解剖室の戸口から入るのを見たんだ、プール」と彼は言った。「ジーキル博士が不在の時に、そんなことをしても差支えはないのか?」
「差支えなどございませんとも」とプールが答えた。「ハイドさんは鍵をお持ちなんですから。」
「あなたの主人はあの若い人を大いに信用しているようだな、プール」とアッタスンが物思いに沈みながら言葉を続けた。
「はい、旦那さま、全く信用しております」とプールが言った。「私たちはみんなあの方の言う通りにするように言いつけられています。」
「私はハイドさんと一緒になったことがないと思うんですが?」とアッタスンが尋ねた。
「ええ、ええ、おありではありませんとも、旦那さま。あの方は一度もここでお食事をされません」とその召使いが答えた。「実際、私たちはお屋敷のこちらの方であの方を滅多にお見かけしないのです。たいていは実験室の方から出入りされますから。」
「では、さようなら、プール。」
「おやすみなさいまし、アッタスンさま。」
こうして弁護士はひどく重苦しい心を抱いて家路についた。「気の毒なハリー・ジーキル」と彼は考えた、「彼が苦しい羽目に陥っているのではないかと気になってならない。彼は若いときには放蕩をした。確かに、それはずっと以前のことだ。
だが、神さまの法律には、時効法なんてものはないのだからな。そうだ、そうに違いない。何かの昔の罪という亡霊か、何かの隠してある不名誉な行為という癌なのだ。記憶が過ちを忘れてしまい、自分を愛する心が罪を許してしまってから何年もたってから、罰というものは跛を引きながらやって来るものだ。」
そして、この考えに怖じ気づいた弁護士は、しばらく自分自身の過去を考えて、ひょっとして何かの旧悪がびっくり箱のように、いきなり明るみに飛び出してきはしまいかと思って、記憶の隅々までも探ってみた。彼の過去はまず過失のない方だった。
彼よりも少ない懸念をもって自分の生涯を振り返ることのできる人は少なかった。それでも彼は自分のなした多くのよくないことを思うと恥ずかしさに堪えなかったが、また、自分が今にもしようとして止めた多くのことを思うと、再び元気づいて厳粛な感謝の念を抱くのであった。
それからまた、彼は前の問題に戻って、希望の閃きを心に描いた。「あのハイドという若者もよく調べてみたらと彼は思った。「やはり秘密を持っているに違いない。あの男の顔つきから考えれば、さぞ暗い凶悪な秘密を持っているだろう。それに比べれば可哀想なジーキルの一番悪い秘密だってお日さまの光みたいなものだろう。
このままにしておくわけにはいかない。あんな奴が盗人のようにハリーの枕元へ忍び寄ることを考えるとぞっとする。可哀想なハリー、目を覚ました時にはどんなに怖いだろう! それにまた危険だ。というのは、あのハイドの奴が例の遺言書の存在を感じ取ったなら、奴は財産を相続するのを待ち焦がれるようになるかもしれないからだ。
そうだ、私は一肌脱いでやらなければならない、――もしジーキルが私にそうさせてくれるなら」と彼は言い足した。「もしジーキルが私にそうさせてくれるならだ。」するともう一度、彼の心の目の前に透明な絵のようにはっきりと、あの遺言書の奇妙な文句が見えたのだ。
今夜はここまでです。次回は「ジーキル博士は全く安らかであった」をお送りします。
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